オックスフォード通信(171)Serena Williams

USオープンで優勝した大坂なおみさんがインタビューを受けている様がBBCなどで放送されていました

テニスコートで見る姿よりもずっと大人びた雰囲気で落ち着いた受け答えをしていました。

一方で、Serena Williamsについてはオーストラリアの新聞が漫画に描いたことによって更なる波紋が広がっています。

先日のガーディアン紙では (2018.9.7) 大学で教える教員の BME (Black Minority Ethnic)の比率が極端に低いことを報じています。裏を返すと、白人男性の比率が高いと言うことです。この新聞のグラフを見るとその極端さに驚きますが、その状況は日本においてもまた女子大学においてもそれほど変わらないのかもしれません。

マンガについては賛否両論あるようです。BBCのWebはその様子を伝えています。大坂なおみさんも白人風に描いてあると、漫画への批判は Serena だけに留まらないようです。また、PC(Politically Correct、パソコンではない)という言葉も出て来ています。

ただ生放送でUSオープンの決勝戦を見ていて、Serena の激昂ぶりは異様に映ったのは事実ですし、観客のブーイングも見たことがないような尋常ではないものでした。これが Serena が仮に優勝していたら彼女はここまで言っただろうか、第一セットをとっていたら・・・とも考えます。

どうも「江戸の仇を長崎で討つ」といった日本の諺も浮かんできそうな状況です。

(2018.9.14)

★今回の教訓:BBCの関心の高さの方に興味を持つ。NHKは放送しているのかしらん。
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オックスフォード通信(168)911

この日にどこで何をしていたか?

そのような日が人生にはいくつかあると思います。例えば、阪神淡路大震災、JR福知山線脱線事故、東日本大震災。そして、2001年9月11日もまたそのような日に数えられると思います。

日本は夜の10時すぎで久米宏のニュースステーションの番組の中で旅客機が激突する様子を見たと言う人が多かったと後から聞きました。

当時、トロント大学の大学院生だった私は事件が発生した8:47頃には既にBloor Street に面した建物(OISE)2F、現在でいうところのラーニング・コモンズ(Educational Commons) コンピュータールームにいました。まだインターネットがそれほど普及していない時代でしたが(自宅アパートではまだモデムで電話回線を通したインターネットを使っていました)Netscapeというブラウザーを使いながら何かの調べ物をしていました。

2週間後には日本に帰国することになっていましたので、友人で当時トロント大学のContinuing Educationの教員をしてたClayton Young先生(現在はドバイ在住)に使用しているテキストや教材を午後、見せて頂くアポイントメントをしていました。

9時頃になって回りが騒がしくなってきて何か大きな事故がNew Yorkで起きたらしいと言う話が聞こえてきました。1Fのロビーに降りてみるとすでに特設のテレビが置かれていて多くの人がその回りを囲んでいました。トロントはニューヨーク州に面していて心理的にも地理的にも近い距離にありました。時差もなく全てがリアルタイムでした。

そのあとは悲鳴は聞こえるものの唖然としすぎて割と静かだったのを覚えています。目の前の映像が信じられず、中には先週そのワールドトレードセンターの展望台に行って来たところだと言う人もいました。従兄弟がニューヨークに住んでいると言う人もいました。

午後になってクレイトン先生に教材を見せてもらいながら「この日に何をしていたかと言うことは永久に覚えているだろう」と言われたことを鮮明に覚えています。

当時住んでいたBloor-Yong(ブロア・ヤング)にあるトロント大学のファミリー用アパートまでは徒歩で15分くらいの距離にありましたが、途中の電気店のテレビに人が群がっていたのを印象深く覚えています。

3000人近くの人がテロによって理不尽に命を奪われたことに感じた怒りは今も消えることはありません。その中には少なかぬ日本人も含まれていました。ただ、世界を震撼させた事件でありながら、今だに多くの不明な点があることやそれについてアメリカ政府が納得のできる説明を提供していないこともそのような姿勢が必ずしも感じられないことは不思議なことだと思います。

(2018.9.11)

★今回の教訓:911は南米・チリでは1973年9月11日のクーデターをいう。911はアメリカ的発想の数字だ。
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オックスフォード通信(165)炎のランナー (A chariots of fire) と大坂なおみ

本日、土曜日夕刻はBBC Promsの最終夜 (BBC 2, 1)とUSオープン女子決勝(Amazon Prime)がほぼ同時刻に生放送されていました

BBC Promsは一度ロイヤルとアルバートホールに見に行った事もあり(通信145参照)今日の最終回を楽しみにしていました。Proms自体リラックスした雰囲気ですが、最終夜は最初から各国の国旗が舞うお祭り気分のコンサートになっていました。指揮者のSir Adrews Davisの挨拶やコメントにも観客と一体感があり見ていて楽しいものでした。Promsは日本でもBS-NHKで1-2度見たことがあるのですが、イギリスで生で見ると一段と臨場感があります。

特に、ハイライトの Pomps and Circumstance(エルガー作曲、威風堂々)は良かったです。普通なら極評するところだが今晩は良かったと指揮者のDavisが冗談ぽく言いながらもう一度アンコールとして演奏しました。

そして、そのあとの Jerusalem。38年前、20歳の頃、映画『炎のランナー』の最後にこの聖歌が教会で歌われるのを見て何故か心を揺り動かされたことを昨日のことのように思い出します。今回の在外研究でカナダではなくオランダでもなくイギリスを選んだのはまさにこの曲をもう一度イギリスで聞いて見たいと思ったことをが潜在意識にあったと思います。

この Jerusalem の最後で a chariots of fire(炎のランナー)の一節が出てきます。38年前何に感動したのか、それは情熱を持って人生を生きていく姿勢だったと思います。その曲がPromsの最後で歌われることに、イギリス人がこの曲を大切にしていることに共感を覚えます。

と、同時に。USオープンでの大坂なおみの快挙。昨日の錦織圭のベスト4とあわせて素晴らしい試合を見せてもらったと思います。錦織は準決勝で負けてしまいましたが、二人ともテニスを楽しんでいるところがいいと思いました。特に準々決勝でのClic戦では、タイブレークを取ることになった錦織のパッシングショットに思わずClic が笑っていたのが印象的でした。

テニスはビジネスになっているし、賞金も掛かっていますが、大阪にしても錦織にしてもテニスが好きでプレイを楽しんでいるところが節々に見ることができました。恐らく人生も同じことなんだと思います。勝とうとするマインドセットを楽しもうとするものに変えるときに思わぬ力が出るのだと思います。ひとが思うほど他人のことには興味はないもので、勝っても負けても、また新しい出来事に人の関心は移って行くものです。

ならば誰かのために頑張って勝とうとか思うよりも、自分が楽しんでプレイをする方がより人生が豊かになるのだと思います。

肩に力が入りがちな中で錦織も大阪も楽しいプレイを見せてくれたと思います。

錦織は準決勝で敗退しましたが、テニス人生においてはすでに勝利していていると思います。大学生の皆さんにも同じことが言えるのではないでしょうか。大学に入った時点ですでに人生に勝利していると。
人生を楽しむことと Chariots of Fire。相反するように見えますが根底は同じだと思います。人生を楽しもうと思わないと情熱は湧いてきません。誰かに勝とうとかそのような気持ちでは長続きしないと思います。

PS. セリーナウイリアムズの審判への執拗な抗議には辟易とするものでした。それを煽るアメリカの観客もどうかと思います。ウインブルドンではそうはならないだろうと思います。試合をみる観客の態度も含め自由をはき違えている人が多いように思いました。

PS-2. 錦織の試合のコメンテーターはあのジミー・コナーズで声を聞けて嬉しかったのですが、しゃべりすぎで、錦織がサーブやプレイをしている間も喋り通しの異様な中継だった。名選手が名コメンテーターとは限らないのだろうか。コナーズが選手時代のビデオで、”You may not like me, but I like you.” と言っているものがあったがコナーズファンが減らないように気をつけた方がいいと思う。

(2018.9.8)

★今回の教訓:帰国まで200日。更にイギリスを楽しみたいと思う。
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オックスフォード通信(157)帰国ラッシュ

季節が変わります。

と合わせて日本人研究者の先生方で帰国される方も多くなってきています。車を譲っていただいたK先生が8月上旬、妻が親しくしていただいていた九州の大学にご勤務のK先生が先週、そして湖水地方やグロースター大聖堂などをご案内頂き文学に疎い私に新たな光明を与えていただいたK先生ご夫妻が9月初旬に帰国されます(全てイニシャルがKなのは偶然の一致)。

一期一会という言葉が指し示す通り、日本では決して実現しないような出会いがあるのがこの在外研究の醍醐味の一つであると思います。特に自分の専門外の先生とは学内ではお会いすることはあってもゆっくりとお話をする機会はそれほどないものです。

そのような先生方がご帰国されるのを目の当たりにすると一抹の寂しさがあるものです。まだまだ時間があると思っていたのに、というのは人生にも当てはまることかもしれませんが。

火曜日に帰国されるK先生ご夫妻とはオックスフォードシティーセンターのパブで一献傾ける(と言ってもビールですが)ことができました。オックスフォードの経験が深い先生からは「やはり健康第一」「あまり欲張らないで淡々と生きる」「日本とオックスフォード、あるものはそれほど変わらない、むしろいつも時間がないのでできないことが多い。新しいものに飛びつくよりもじっくりと時間を大切に」との貴重なアドバイスを頂き、今後半年の人生訓にしようと思っています。

銀行口座開設やフラット探しの苦労など、今となっては笑い話に花を咲かせて楽しくささやかな送別の宴を持てて良かったと思います。どこにいても今後もひととひとのつながりを大切にしたいと思います

明日からは9月。在外研究もあと半年となります。

(2018.8.31)

★今回の教訓:素晴らしい人たちに会うと心がすがすがしくなる。
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オックスフォード通信(145)PROMS

イギリスにいる間に是非ともと思っていた BBC PROMS (PROMenade concertS), に金曜日の夜に行ってきました

4月当初からプログラムを買っていたのですが、なかなか踏ん切りが付かず、このままでは行かずじまいになってしまいそうでしたので、思い切って(大事な事ですね)バスに飛び乗りロンドンまで日帰りで行ってきました。

グズグズしていたのには理由がいくつかあるのですが、その最大のものが、イギリスのコンサートは始まるのが遅く、当然のことながら終演も遅いという事です。このプロムスも同じ事で金曜日のコンサートも19:30から終了はほぼ22:00(中には、Late night concertというものもあり0:00終演というものもあります)。

結果的には帰りもバスで帰ることができて、オックスフォードのアパートには0:30頃には帰り着いていましたので、地下鉄やバスの乗り継ぎもうまく行きました(Victoria Station のCoach Bus Stationから乗ったのですが、行きに帰りの乗り場を下見しておいて良かったです。イギリス最大のバス乗り場だと思います)。

さてこの PROMS に是非にともと思っていたのには微笑ましい理由があります。36年前(1982年)ヨーロッパ一人旅(正確には、到着時と出発時のみツアー。現在の『地球の歩き方』の前身であるダイヤモンドツアーに参加)した際、この会場の Royal Albert Hall の外観だけ見て中を見ることができなかった悔しさが残っていました。今回はコンサートということもあったのですが、この会場となった Royal Albert Hall の中に入って見たい気持ちの方が強かったと思います。

会場内は外観から想像できるように円形、しかも中央部1Fは当日券の立ち見席という他のクラシックコンサートでは考えられないような形式。

インターネットで3日前に予約した席でしたが、ステージからそれほど遠くなく指揮者やコンサートマスター、バイオリンのソリストの顔もはっきり見えるいい席でした。

PROMS の趣旨がクラッシック音楽を一般大衆にも楽しんで欲しいというところにあるからでしょうか、ビールなどの飲み物の持ち込みもOKという気軽なコンサートのように思えました。また休憩時間には甲子園のように肩から番重のようなものにアイスクリームを載せて客席を売り歩いていたのにはビックリしました。しかしコンサートが始まると誰一人物音一つさせないでシーンとするメリハリは流石です。

曲目は、エルガーやプロコフィエフ、フィンランドの作曲家の現代曲でした。BBC交響楽団の弦の響きが美しく引きこまれるような演奏でした。

客層は圧倒的に60代以上のシニアが多いように思いましたが、クラッシックを手軽に楽しめるような仕組みは上手い、と思います。日本にもこのような企画があるといいですね。

36年間の想いを遂げることができて、イギリスに来た目的を一つ成し遂げることができた夜でした。

(2018.8.19)

★今回の教訓:プロムスはBBC3のラジオでも生中継しているが生の感動には到底及ばない。期間中にもう一度行って見たい。
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オックスフォード通信(141)イスラムの世界

しばらく前に、ブルキナファソのピーターさん、ギニアのサマーさん、シリアのオマールさん、そして日本のコナツさんと一緒にランチを食べました(通信114参照)

その日はピーターさんがステーキが好きだというのでオックスフォードの南、カウリー (Cowley) にあるパブでお話をしました。

折角ステーキが美味しい店に来たのですが、サマーさんとオマールさんは宗教的な理由でステーキを食べないというのです。ピーターさんを含め3人ともイスラム教を信仰しています。ピーターさんが詳しく教えてくれたのですが、イスラムではまずポークを食べることを禁じている、これはよく知られた事実です。難しいのはビーフです。

ビーフに関しては、ハラル (halal)によって詳しく規定されていて、要するにこの要綱に沿った食肉の処理をしなければ食べられないとのことです。牛はインドのヒンズー教や日本の神道の一部でも固く信じられているように、田畑を耕したりして人を助ける動物であり神聖化されているところがあります。その聖なる牛を食すには牛が苦しまないような形で食肉化 (slaughter)しなければ食べられないということです。その証拠としてhalalというマークの付いている食肉でなければ、またレストランであればハラルの肉を使っていると証明がなければいけないとのことです。

サマーさんとピーターさんは30代半ば、オマールさんで40代半ばといったところですが、ピーターさんを除くお二人はこの掟を堅く守っておられるようです。

ただアフリカでも国が異なるからなのか、個人差なのか、ピーターさんはハラルには気にせず、ステーキが好きだと言ってメニューにあれば良く注文するそうです。

その他の行動規定についてはシャリーア法 (Sharia)で細かく規定されているようで、原則としてお酒やタバコも禁止とのことです。最も厳格に守っているのがサマーさんでお酒もタバコも吸わないとのこと。その中間がオマールさんでタバコは吸う、お酒はほどほどに、ポールさんはタバコは個人的な趣味で吸わないだけであとは何ら規制されないと言っておられました。

全世界人口の何分の一かを占めるイスラム教ですが、このように個人ベースでお話を聞くとよく分かって面白いです。

その他、シャリーア法では一夫多妻制度を禁じていないそうですが、実際に実践してしている人は少ないそうで、二番目の奥さんをもらうには一番目の奥さんの許可がいるそうです(許可する奥さんは少ないと思いますが)。

先日話題になった、女性が初めて車の運転を許されたサウジアラビアはイスラムの中では例外的存在のようで他の国では女性も普通に車の運転が許されているようです。

ハラルシャリーア法についてはイギリスの新聞でも触れられることがあるようです。

お二人には申し訳ないのですがステーキはとても美味しかったです。

(2018.8.15)

★今回の教訓:イスラムというと分かりにくいというイメージがあるが話をしてみるとなるほどと分かってくるところもある。日本は敗戦記念日。

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オックスフォード通信(136)対等だと女性中心と誤解してしまうのか

イギリスでは女性が活躍していると思っていました

でもそれは単に男性と肩を並べているだけであって、男性中心の日本からするとその対等という状態が、私にイギリスは女性中心の社会と錯覚させるのかもしれません。

例えば毎朝見ているBBC One の Breakfast。女性キャスターの Naga Munchetty と男性キャスター Dan Walker が並んで番組を進めることが多いですが、日本と違うのは女性が補助的な役割ではなく、Naga が Dan に話をふることもその逆もあるということです。また、Naga が Dan にジョークをいうこともあれば、先日などは、今年の夏増えているというヘビが実際にスタジオに持ち込まれ、尻込みするDanを横目にNagaがヘビを手にはわせるという場面もありました。

教育学部の事務職員も女性が多く、現在の教育学部長も女性教授です。多く、と書きましたが、圧倒的ではなくて事務職員にも男性もいるし、オックスフォードの教授陣は男性の方が多いように思います。

男女が対等に扱われる社会とは、女性が中心の場面もあれば男性が中心の場面もあるということだと思います。女性も男性も互いにこびることなくリラックスして生きることのできる社会。

日本がそのような社会を目指すとすれば、女性が中心のモードを増やしてゆくことだと思います。どちらがいつも中心的な役割を果たすのでなく、次の仕事では女性が、その次は男性がと交替すればいいのだとおもいます。それが男性が外で働き、女性が家事をするというステレオタイプ的に固定されるからいびつになるのだと思います。

一方、それだけ女性自身が担うべき責任も大きくなるのは避けられません。

(2018.8.10)

★今回の教訓:ヘッドを固定してしまうのではなく、プロジェクト毎に男女の役割が交替してゆくようなスケジュールを組むことはできないだろうか。
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オックスフォード通信(133)ヒロシマ

イギリス時間(=グリニッジ標準時)8月6日、午前0時15分、日本に向かって黙祷を捧げました

翌日のイギリスの新聞(本日、8月7日)でHiroshimaを取り上げていたのはテレグラフ紙のみです。エノラゲイの乗務員は投下後、口の中で鉛の味がしたと言っています。

日本では平成最後のヒロシマの日と報道されているようですが、ことイギリスに限ってみるとそれほど関心が持たれていないのは残念な気がします。

第二次世界大戦前、私の両親や祖父母は両方ともハワイや朝鮮半島、満州で暮らしていたのですが、父方の故郷がもともと広島であったため、親戚も多く、戦後は広島に引き揚げ暮らしていたため、小さな頃から広島を訪れることはよくありました。私自身は京都府綾部市の生まれですが、亡くなった長男の春海(春海)兄や、次男の保美兄は広島生まれです。

初めて広島を訪れたのが多分小学校3年生の頃でした。当時まだ山陽新幹線もなく、「しおじ号」という特急で何時間もかけて、確か呉線経由で夏休みに祖父母の家に行ったことを鮮明に覚えています。祖父母は戦後、農家を営んでいました。家の前に畑があり、お風呂は五右衛門風呂でフタの上にうまく乗らないと周りの鉄板に触れてそれこそ火傷しそうに暑かったのを覚えています。

宮島など広島の観光地を数多く訪問しましたが、原爆ドーム、平和祈念公園、そして原爆資料館の印象が強烈だったのをよく覚えています。現在の資料館よりも照明が暗かったと思いますが(昨年訪れた際、CGなども駆使した再現性に驚きました)、特に原爆に被災した人々の写真や衣服、持ち物が数多く展示してあり、驚きよりも原爆の恐ろしさを心底感じたように思います。

農家のトイレは母屋と別棟になっていて、思い出すと怖くてトイレにいけませんでした。

祖父母の家は現在でこそ広島市内に編入されていますが、中心部からはかなり離れているので、親戚でも原爆で被災した人はいなかったようですが、叔父は市内で被災していました。小学生の頃、一緒にお風呂に入ると、その背中にケロイドの跡が残っていたのを見て、原爆が身近にあることを実感しました。

その後、大学を卒業後、実際に8月6日の平和式典に参列したこともありますし、祖父母や叔父が亡くなり、広島の家が売却された後も、出張などで広島に行く機会のある際にはなるべく平和記念公園や原爆資料館を訪問するようにしてきてました。

訪れるたび、感じるのは、戦争にどのような意義があると言われようと、映画で戦争指導者がいかに美化されようとも、戦争が悲惨な結果に終わるということです。まして、原爆のように1つの爆弾で10万人単位で人が一瞬にして死んでしまうことの非合理性と残虐性。

「ヒロシマのある国」に住む私達にできることは何だろうと、真面目に自分に問いかけていました。(2018.8.7)

★今回の教訓:異国の地から故郷を想う。
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オックスフォード通信(130)Jacinda Andern (PM of NZ)

ニュージーランドを年末年始に訪問してからすでに5年近く(2013年末-2014年頭)経ちます

南島のクイーンズタウン (Queens Town) から旅をスタートしたのですが、飛行機が徐々に高度を落として南アルプスの切り立った山々が目に入り、そして氷河の水が流れ込んだ湖を見たときの感動を今でも忘れることができません。その後ロープウエーで高台まで上がってみたのですがさらに青々とその湖は水を湛えていました。ミルフォードサウンドの静まりかえったフィヨルドも強く印象に残っています。

本日のイギリスガーディアン紙をめくると、ニュージーランドの女性首相である Jacinda Andern が出産から6週間で仕事に復帰したニュースを一面で報じていました。何か、日本との大きな差を見せつけられたようで少し呆然とするような気持ちでした。

ニュージーランドは美しい国土を持っているだけでなく、女性が住みやすく働きやすく出産もしやすい国なのだなと思います。

基本的姿勢として私は特定の大学とか誰か国会議員だけが悪いと追求する気持ちはサラサラありません。漏れ伝わってくるニュースでは出産をしないゲイに手厚い保護はいらないとか生産性が低いとか(エルトンジョンが聞いたら激怒すると思いますが)、すぐ辞めてしまう女医さんを抑制するために大学入試で女子の点数を一律減点してきたとか、それ自体は呆れ返る話ばかりで、なぜそのような国会議員や大学が存在するのか目を疑いますが、それは誰の責任なのかと思うわけです。民主主義国家と言っても日本はその程度なのか、と思うますが、モグラ叩きのように次から次へとレベルを疑われるような話が出てくるのは、その特定のグループや個人の問題ではなくて、日本人全体が醸し出してきた負の文化の表れなのかもしれないと思います。

陸上競技での10000M走で言えば周回遅れもいいところで2-3周遅れているように思います。

もちろん、そのような問題を放置もできないし追求もしなければならないけれど、国会議員ならそのような政党には一切投票しない、そのような大学には子弟を送らないなど国民が毅然とした態度を取らないからいつまでもこのような問題が起きるのだと思います。そもそも自分は関係ないとか、暗に支持をしている人たちの割合も多いのではないでしょうか。

これまでは選挙になって、土下座されたり、涙ながらに訴えられるとそれまでのことをすっかり忘れて一票入れるのは、日本人のおめでたい、お人良しが現れているように思ってきたのですが、最近ではむしろ、未来に対して無責任な態度だと思うようになっています。その一票を投じたり、棄権をすることが、現在の日本の状況を生んでいることにもっと目を向けるべきだと思います。

私は別に日本が全てニュージーランドのようにならなくてもいいと思いますが、少なくとも今回の記事を読んで、ニュージーランドの方がさわやかな風が吹いているように思いました。

さわやかな風が吹いている地域を増やせば、愛国心も自然と備わってくるように思います。

デジタルは若者の独断場。社会を変えるいいチャンスなのかもしれません。

さわやかな国に住み、さわやかな風の吹いている大学で教えたり学んだりしたいものです。

(2018.8.4)

★今回の教訓:女性の首相がいて、出産して職に戻る。これ以上のロールモデルはないだろう。
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オックスフォード通信(127)若木は嵐に育つ

オックスフォードに来てからすこし自分の教師生活を振り返ることがあります

公立中学校で11年、短期大学の講師・助教授として8年、大学の助教授・教授として17年、計36年教師をしてきたことになります(大学院留学などの期間を含む)。その間、多くの素晴らしい教師に出会ってきました。すぐ頭に思い浮かぶだけでも、大学時代にはゼミの担当であった稲葉宏雄先生、田中昌人先生、天野正輝先生、田中耕治先生、大学院修士課程では髙島英幸先生、山岡俊比古先生、二谷廣二先生、次重寛禧先生、田中正道先生、青木昭六先生(青木先生にお世話になったのは院を修了してからだが)、大学院博士課程では Sharon Lapkin先生、Merrill Swain先生、Nina Spada先生、Alister Cumming先生、Nishisato Shizuhiko先生など学生として院生として多くの先生の薫陶を受けてきました。

一方、多くの大学の教員や研究者と異なり、私は大学卒業後教師として働いた後、30才を過ぎた頃大学院に入りましたので、教師の仕事に関しては大学時代及び中学教員として働いた20代に出会った先生方の影響を多く受けてきています。

その中でも、大学4回生の時、京大に1回だけ講演に来られた林竹二先生と同じ中学校で働いていた当時の学年主任だった中村昇先生との出会いは大きかったと思います。

林竹二先生は今から思うと亡くなる2年前の講演だったと思います。「授業を通して教師も生徒も変わる」ことを実感を込めて当時の法経1番教室を埋め尽くした学生に語られました。その信念に基づく話しぶりに、困難を伴いながらも、教育の可能性を大いに実感したのをよく覚えています。「国語でなくとも英語でも同じことはできるでしょうか?」と直接先生に質問したところ「もちろんです。多くの英語の先生が素晴らしい実践しているではないか」と力強くお答え頂いたのも鮮明に覚えています。

中村昇先生には、授業もクラス運営もうまくいっていない時、あきらめないで一緒に頑張っていこうと同じ目線で日々励まして頂きました。当時、経験も浅く「教えられたように普通に教えていた私」の授業に魅力がなかったのは事実です。もちろん、その後、大学の教員になって物事がすんなりと授業がスムーズに進んだ訳ではないですし、苦労もありましたが、20代の教員時代の比ではありません。林先生のような魂の授業をしようと思ってもできないもどかしさ、明らかに生徒の興味をつかみきれていない授業、忙しい毎日、見えない展望。

でも今から振り返ってみるとその日々の葛藤があったから今の自分があることに気づきます。当時、三上満先生の「若木は嵐に育つ」という本を読んで、嵐の中にいる若者は全然そんな気になれないよ、と思っていました。でもその嵐にもいつか対処できる方法を編み出すことができるのも事実で、今から思うと三上先生は正しかったと思えるのです。

振り返るのには早いのはよくわかっていますが、今日このようなことを考えていたのも、今春大学を卒業し、関西のある市の中学校の英語教員として奮闘しているAさんと昨日、テレビ電話で話したことがきっかけです。彼女はまだ常勤講師の身分ですが、英語の授業に加え、学級担任、クラブ指導も受け持っています。新採ですら多くの場合1年目は学級担任は免除されるのと比較しても荷重の負担です(おまけに教員採用試験の準備もしなければなりません)。このような状態でありながら管理職からはできていない所について手厳しい指導というか叱責が度々あるそうです。本来なら、これだけの負担を強いているわけですから、このようにすればもう少しうまく行く、といったサポートをするのが、又はそのような体制を取るのが管理職の仕事だと思います。

矛盾を感じます。

しかし、一方で彼女の話を聞きながら、自分自身の20代を思い出していました。時代も置かれている状況も大きく異なります。でも困難にあることには変わりはありません。

管理職と対決して仮に管理職が折れて、Aさんをサポートしてくれるように変わってくれるとそれはいいかもしれませんが、そこに至るまでの道のりを考えるとそれこそ呆然となります(本来は、同じ学校で教える同僚がもっと手を差し伸べるべきです。また、なぜ新卒の講師が担任をしなければならないのか、その学校の人事構成に歪さを感じます。誰かが担任を拒否しているわけです。どの組織にも理由をつけてしんどい事から逃れようとする人がいるものです)。そのようなことに使うエネルギーは「授業」に向けるべきだと思います。

「授業が変われば、生徒も教員も変わる」。この林竹二先生の教えはいまも生きています。しかし、一方で授業を根本的に変えることはそれこそ大変です。

マンガ『美味しんぼ』に先代から受け継いだだ天ぷらやの二代目の話があります(二代目の腕)。どれだけ修行して工夫してもお馴染みさんからは親父さんにはまだまだだねと認めてもらえないと悩んでいるのです。そこへ山岡がやってきて、てんぷらではなくて、付け合わせの漬物に工夫を凝らせ、とアドバイスをするのですね。二代目はぬかから工夫をしてピカイチの漬物を天ぷらと一緒に出すと、馴染みの客が、腕を上げたね、と絶賛するというお話です。

いろいろな解釈があると思うのですが、私はどこか一部分でも改善すると全体がよくなったように人間はいいように錯覚すると理解しています。

Aさんにアドバイスをしたのは、学級担任もクラブも英語の授業も全部を変えようと思ってもそれは気が遠くなるし非現実的、英語の授業に絞って、しかもその10%(5分間/50分授業)だけを何かあたらしいアイディアで変えてみてはどうだろうか、ということでした。

幸い、英語の授業は切り口が色々とあります。デジタルネイティブの20代の教員であれば、まずインターネット、iPad、電子黒板などICTが真っ先に頭に浮かびます。ビジュアルや音声と組み合わせると一層効果的です。そして、ALT。ALTのサポートで沢山の教材をICTを駆使して作ることができます。これは若い先生の得意分野です。まさにDigital Age の真骨頂です。

Aさんには是非、英語の授業から切り込んでいってほしいな、と思います。

「石の上にも三年」

そう、卒業式にゼミの皆さんにお話しました。今回は教師の仕事について書きましたが、仕事について3年くらいはどの業種でも大変です。

嫌なことは寝て忘れられるのも若者の特権です。また翌日は新しい一日として臨むことができるのが若者の特権です。あっけらかんとしていたらいいのです。

誰しもできなかった20代があったのです。今この文を読んでいただいたみなさんが20代なら出来なくて、もともと、と思って、「少しずつ」改善を目指してください。

今読んでいただいているのが50代の管理職の皆さんなら(あまりない状況ですが)、自分の20代を思い出して、建設的なアドバイスをしてあげていただきたいと思います。自分の学校をよくしたい気持ちは分かりますが、それは同僚性を基盤した協働性の上に成立するものだと思います(豊中市の校長をしている畏友のN先生にこの話をすると激怒するだろう)。

A先生、一歩一歩、授業を見つめて改善してゆきましょう。いつか、私のように振り返る時がきますよ。生徒はよく見ていますよ。大丈夫。A先生は未来の教師です。経験を積んで少しずつ授業を改善してゆきましょう。

若木は嵐に育つ

(2018.8.1)

★今回の教訓:上に立つ人の人格は格段と重要だと思う。長のつく役職についた途端に勘違いする人が結構いる。一生、その長の仕事に留まれるのなら別だが、自分がその仕事を離れた時にどれだけ周りの人に慕われるか考えて行動するべきだ。実力のない人ほど偉そうにするのはいつの時代も変わらない。有言実行のリーダーと一緒に仕事がしたいし、そのようなリーダーシップが取れる人にいつかなりたいものだ。
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オックスフォード通信(126)Apple と Windows

この夏は大学の図書館、ラドクリフ・カメラ で仕事をすることが多くなっています

日本と同様に歴代1位ではないかといわれるくらいの高温と連続した夏の日差しはさすがに日中はこたえます。所属する教育学部の図書館の方がフラットからも近いので(約7分くらい、ラドクリフで10分くらい、あまり変わりません)すが、建物の壁が薄いせいか、暑さがすぐに室内に伝播します。一方、ラドクリフは本格的石造りで窓も多くないのでエアコンが入っているのではと思うくらいひんやりします(通信120参照)。日本の蔵と思っていただくといいかもしれません。

さて、そのラドクリフで(写真は厳禁なので残念ながら撮ることが出来ません)周りを見渡すと、ほぼ全員と言っていいくらいラップトップを持って来ているのですが、これもほぼ全員と言っていいくらい Apple の製品、Mac を使っていることに気づきます。

世間的にはマックのシェアは精々10%くらいだと思うのですが、オックスフォード大学の大学生、大学院生、そして研究者を含めても逆に90%以上のシェアがあるように思います。大学の図書館のコンピュータはデルなど全部ウインドウズなのですが、個々のユーザーが全く逆転していることは興味深いことだと思います。

日本でも大学の図書館やコンピュータルームのコンピュータはほぼ全部ウインドウズですが(同女の創造メディア学科にはマックの部屋があります)、大学生もウインドウズを使っています。なぜ日本ではユーザーレベルでのウインドウズとマックの逆転現象が起きないのでしょう?

マックの方が使うのに難しそう、という声をよく聞きます。両方使っている立場からすると全くの誤解でウインドウズの方が150%くらい使いにくいという印象を持っています。

これは(日本人大学生がマックを使わない理由)日本人の方が自分で考えて選択していないのでウインドウズ優勢になってしまっているのではないでしょうか?日本人大学生で良く聞くのは「どのコンピュータが使いやすいですか?」ではなくて「みんなはどのコンピュータを使っていますか?」というセリフです。すると必然的にウインドウズになってしまいます。

イギリスの大学生もみんなが使っているからという理由でマックを使っていると思うのですが、その流れを作った人達はおそらく最初の質問を問いかけてマックを選んだのではないでしょうか。またマックが使いにくくいなれば、ウインドウズに乗り換えることもいとわないことでしょう。

たかが、コンピュータの種類ですが、日本と同じ島国根性を持っていると言われるイギリスの大学生の方がより現実思考かつ未来志向な気がします。このマインドセットは必然的に就職先や支持政党にも反映されているように思うのですが、過大解釈しすぎでしょうか?

「みんなはどこの会社を志望していますか?」

「みんなはどこの政党に投票していますか?」

と。

(2018.7.31)

★今回の教訓:マインドセットを変えることはなかなか難しいが、異なるマインドセットに触れることは外国語学習の重要な目的であるように思う。
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オックスフォード通信(123)OUP

オックスフォードにはかの有名なOxford University Press (OUP) があります。

本社は昔、現在のボードリアン図書館の前にあったそうですが、現在は Jericho と言われる大学の東側に移っています。まあ、そこは本社という事なのですが、その直営店(=書店)がオックスフォードのハイストリート(イギリスのどの街にもある通りで、通常メインストリートになっている。オックスフォードの場合にはコーンマーケットストリートの方が賑わっている)にあります。

日本なら即日(大学の研究室のある京都市内なら)や翌日(自宅のある亀岡市内)に配達ということもありアマゾンで注文する事が多いのですが、イギリスのAmazon(こちらでもプライム会員になっています)は翌日配達が稀でほぼ2-3日以内の配達という状況です。すると急に、アマゾンで注文する魅力が失せる感じもあり、今住んでいるフラット(Summer Townです)からCirty Centre(イギリスではダウンタウンよりもこちらの言い方)まで自転車で(!)10分程度なので、本が欲しくなったら買いに出かけるようにしています。

もちろん四条河原町や四条烏丸まで出かけると丸善やジュンク堂があるのですが、同じ大学街でも徐々に本屋さんが無くなっている京都はとは少し状況が違うように思います。ただ、オックスフォードでも以前はもっと本屋が多かったという声も聞きますし、私がこちらに来てからでもサマータウンの唯一の30年以上続いた本屋さんが閉店しましたので、実は本屋さんへの逆風は日本もイギリスも同じなのかもしれません。

オックスフォードの中心部にある本屋さんとしては、ギネスブックに世界最大の本屋さんとして登録されているブラックウエル(Blackwell’s Bookshop)とウオーターストーン (Waterstones)が代表格です。

しかし、語学や応用言語学の多くの専門書を出版している OUP の本が欲しくなったら直営店に行けるという贅沢さがオックスフォードにはあります。

実は、図書館で本を閲覧・借り出ししたり、PDFで論文を読む事が多かったのでそれほど多くの本をこちらでは購入していないのですが、先日 Waterstones で購入した英語の文法の本が面白かったので、その類書をOUPの直営店に探しに行ってみました。

さすが。欲しいなあ、と思っていたOUPの本は全てあって、ついでにその横に置いてあった David Crystal の本まで購入する事ができました。このあたりが、アマゾンとの違いですね。その本を実際に手に取り、またその周りに置いてある本も手に取ってみたり(更にその近くにおいてあったOUPのペンとかトートバッグなどの誘惑に負けそうになりました)、また同じ書棚を見ている他の客が手に取っている本も参考にすることができます。そこから得られるインスピレーションはすごいとはいいませんが、いい刺激になります。

綾部市という京都北部の小さな街に生まれ育ち、小学5年生くらいの頃に近くにお住まいだった日野先生に英語の手ほどきをしていただいてからどれほどの年月が経ったか分かりませんが(実は分かります)、世界最高峰のオックスフォード・ユニバーシティ・プレスで本を買うことができたことに変な感慨と感動を覚えていました。小さな夢が叶ったように思います。まあ、本を買うなら誰でもできることなんでしょうが。

ところで、昨日はほぼ10年前に同志社大学での授業の受講生だったTさんが会いに来てくださいました(オックスフォードのパブでお会いしました)。また本日は数年前の京都大学での授業の受講生だったDさんからこのブログを見つけてメールを送ってくださいました。このように授業が終わった後も覚えて連絡をしてくださることに感謝の気持ちで一杯です。教師を志望する人に、教員のいい所は授業が終わった後にもその人間関係が持続することがあること、と言っていますが、まさにその通りのことを実感しています。

幸せな気持ちにつつまれた土曜日になりました。

(2018.7.28)

★今回の教訓:本を購入するだけでなく、いつかOUPから自著を出版することを次の夢に。
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オックスフォード通信(121)良心とxxx

From a distance

遠望すると普段見えないものも見えることがあります。私の好きな歌に、この From a distance があります。もう四半世紀(=25年)前になるのがビックリですが、公立中学校の英語教員をしている時も3年生の授業では必ずこの歌を取り上げていました。

湾岸戦争の際(1990-91)Bette Midler のカバーが有名になりましたが、もともとは Julie Gold の歌です。その頃、NHKラジオ英会話を視聴していて講師の大杉正明先生の名調子で紹介されたのがこの曲を知ったきっかけです(先生とは、大学の教員になってFEAT3の学会で親しくお話をさせていただく機会があり感激したのを覚えています)。

From a distance, the world looks blue and green
And the snow capped mountains white
From a distance, the ocean meets the stream
And the eagle takes to flight …

と続きます。イギリスは宇宙ではありませんが、日本を傍観したり、イギリスと日本を比較することによって Julie Gold が歌った効果があります。

会議を重ねても良い結論に至らないことが日本ではよくあります。3つのパターンがあって、A) トップダウン式の会議で何を言っても結論は最初から決まっているので「あきらめて」何も言わない(このパターンが一番多い)、B) 意思決定者(CEO、社長など)に歯向かうと報復(特に、人事などで)を受けるので、意見を言わない、反対しない、C) 正論の提案に対して、しんどいことが嫌なので理由をこね回してその正論が通らないように筋の通らない意見を述べる(現状を改革しようとする会議によく見られる=だからトップダウンでないといけないのだという短絡的結論を生んでしまう)。

パターンは違え、共通しているのは、自分の中にある「本当は … なんだけど」という良心のささやきと何かを取引していることです。パターンAの場合は、良心と平穏な生活を、Bの場合には、良心と保身を、Cの場合には良心と自分さえよければ後は知らないというわがまま(自己中心性「わが亡きあとに洪水はきたれ」)と交換しているのです。

よく、なぜ太平洋戦争を防げなかったのか、なぜナチスドイツのような独裁を生んでしまったのかという疑問が呈せられることがあります。私も何十年とその疑問をモヤモヤと考えてきましたが、最近ハタと疑問が氷解したように思います。

それは政治制度や社会・経済状況というrマクロの問題もありますが、最も大きな問題は個人のレベルで良心を押し殺す作業が日常的に行われている所です。この押しつぶされた良心の束と交換されたものが戦争や絶対主義を招く原因ではないでしょうか。

誰しも自分が可愛く、平穏で少なくとも現状を維持しようと思います。しかしそう思えば思うほど、現在の自分の生活を維持することは難しくなるのではないでしょうか。

私が勤務する同志社女子大学は良心教育を根幹に据える大学ですが、良心ほど言葉で教えるのが難しいことはないと思っています。

イギリスに来てから多くの教会を訪れる機会がありましたが、その多くはイギリス国教会です。最上位にはGod、そしてイエスキリストという図式は変わりませんが、その次に女王が据えられているのが、宗教の役割をわかりやすくしていると思います。つまり戦争には正義の戦争と不義の戦争があり、正義のためには爆弾を落としても人の命を奪っても、神に祈るのことによって正当化されてしまいます。きっとこの時、教会の牧師は良心と何かを取引していると思いますが、それは祈りによって正当化されてしまうのです。人の命はある時は最も重要で、神の愛を説きながら戦争に加担してしまう。言葉では良心と言いながら行動に結びつかない。戦争でこれまで明確になっていることは、爆弾で死ぬのも大衆であるし、戦争に真っ先に駆り出されるのも一般大衆であることです。戦争にいい戦争とわるい戦争があるわけでなく、全ての戦争が良心の対極にあることは自明です。そのことに全ての宗教が全力で反対したのを過去を振り返ってお見たことがありません。ここにも良心と何かとの取引があると思います。

良心はどうやって教えるか。それは実際の行動や実践によってでしかできないと思います。しかもそれほど大上段に構えなくても日々の生活の中で良心の感じられる行動を実践することは十分可能だと思います。教育の大切な役割は、良心が大事だと教えることではなくて、「あなたにも良心を実践する能力が備わっている」と自信を与え、そのような場を提供することだと思います。

同志社女子大学の場合であれば、もうすぐ今年も始まる群馬県榛名町・新生会でのワークキャンプであり、手前味噌で恐縮ですが、若ゼミの活動が含まれると思います。

では、良心と取引しないためにはどうしたら良いか、本当はそのようなことを考えるのが、本年度 (2018年度)から小学校で来年度 (2019年度)から中学校で教科化される『道徳』の目的ではないかと思います。

遠くからものごとを眺めるとよくわかることがあるのは本当です。

(2018.7.26)

★今回の教訓:社会は一人一人から、大学も一人一人の学生・教員・職員から成っている。そのひとりひとりの意識や行動が社会や組織のあり方を決定づけるのは当たり前のことかもしれない。
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オックスフォード通信(119)i-Seminar 第15回目: 春学期しめくくり

昨日は、インターネット・ゼミの春学期しめくくりとなりました

オックスフォード大は既に夏休みにはいっていることを考えると、日本の大学は長期間に渡って勉強していることになります(本題とは関係ないですが、遠くイギリスから漏れ伝わる日本の国政や社会状況を傍観すると、日本は制度疲労していて、国の行く末を誤っているように思います。私は政治家を非難しようとしているのではありません。彼らには日本の100年先や200年先の自分達がこの世からいなくなった後のことを考えるリーダーとしてのビジョンがないのは事実ですが、そのような政治家を選挙に行って又は棄権することによって選んでいるのは日本国民です。そのビジョンがないのは実は日本国民自身であって、国政の状況は日本国民の映し鏡になっているのに過ぎないと思うのです。自分はこれが[仕事が、家庭が、勉強が]忙しいので政治のことは何世も続く政治家のみなさんにお任せしますと言っている間に、世界の大勢からみると、独自路線を行くと言うよりも、行っては行けない方向に危険も顧みず、みんなで進んでいるように思えます。大学に話を限ってみても、15回も授業をする必要はありません。特に今年のように暑い夏の中、効率が上がるわけはありません。それは、大学といいながら、大学評価委員会とか文部科学省に従順であろうとする、大学自治とはかけ離れた態度を取っているからです。なぜそのような態度を取るかというと、それが正しいからではなくて、そうしておけば社会的にも現在では大学内からも非難されないからです。そこに欠落しているのは大学で学ぶ学生や教職員の実際の姿です。効果があれば20回でも授業をすればいい。でも大学設置基準に書いてあるからといって、文科省からの指導があるからと言って盲従しているだけで、大学の将来を真剣に考えているとは到底思えません。自分達が非難されなければ・・・穏便に事なく進めることができれば・・・この理由なき消極主義が日本中にあふれているように、イギリスからは見えます。その裏で文科省の局長が自分の息子を裏口入学させたというニュースが象徴するように無為に権力を持った人達は見識のない行動をとる、それをマスコミが非難する、けれど国民は仕方ないと、どうせ何も変わらないとあきらめ、テレビのお笑いを見、世界一便利なコンビニに買い物に行ってその怒りを静める。でもそうかな、と思います。日本人は総体としてみたときとても優秀だし、ひとりひとりのポテンシャルも高い。要は、控えめするぎるのかもしれないと思うのです。もう少し自分を信じて、つまり自分にできることがあるいことを信じて行動すればまわりの雰囲気は一変すると思います。小学3年生の時、バカなことを考えていて、日本人一人一人から1円ずつもらった、1億円以上のお金になる、と[もちろん、全国民に対して同じ事ができないのでこれは成立しないのですが]。ひとりの力は例えば、1円くらいですが、集まると1億円の力になる、1億円も1円なければ9999万9999円でしかないということです。問題はみんなそのことは知っているけれど、行動を起こそうとしないことです。ではどうすればいいかというと、宮崎駿が「半径何Mのしあわせ」ということを著書の「出発点」・「折り返し点」[どちらか忘れました] に書いていますが、ここにヒントがあると思います。トップを替えないと世の中は変わらないと思う人が多いかもしれませんが、これは多くの場合不成功に終わります。なぜかというと、なかなかトップになれないし、トップになるまでに妥協の産物を沢山作ってしまって、トップになったときには本来の目的をほとんど忘れてしまって、世の中はそんなに甘いものではないとつぶやくのが精一杯になってしまうからです。割と簡単にできる道は、自分の半径1メートル以内を幸せにする努力をすればいいのです。これはできる。昔、自分の家の玄関をキレイにすれば世界は美しくなると聞いたことがありますが、よく似た論理だと思います。これを半径3Mくらいにしてこの春プロジェクトに取り組んだのが若ゼミ18ということにもなります。彼女達が普通のゼミとは異なるのはゼミの運営に関してはおよそ頼るべき指導者が近くにいないということです[アカデミックな部分についてはKitao先生に大きな薫陶を受けています]。じゃあ、自分達で自分達のゼミを何とかしなくては、という気持ちになる訳です。これはゼミだけでなく、結婚している人は自分の家庭は世界一の家庭にしようと思えばいいわけですし、先生をしている人は自分のクラスを世界一の教室にしようと思えばいいわけで、政治家にならなくても[なってもっと教育費を増やしてくれると有り難いですですが]できるわけです。この自分+自分の周辺を変えようと思う気持ちがあれば社会の向きを間違えることはないと思います。ただそこはぬるま湯だけではいけないわけで、建設的に意見を述べる人や前提を作りすぎる[=これは自分達には無理だ]といけない訳です。オックスフォード大に来てほぼ4カ月経ちますが、この大学が世界一であって、他のランキング1000番台の大学と根本的に違うことは[これまで色々書いてきましたが]ないように思います。違いは実はほんの少しで、その違いというのが、真面目に将来を考える、コツコツと実践している、夢の実現のためには先入観なく誰とでも話をする、この3つくらいです。ただその根底には、自分は社会の役に立るはずだという自信(自己効力感)があると思います。というとなーんだ、やっぱりそれはオックスフォード大学だからできるのだ、という人もいるかもしれませんが、そう思う人は「半径を狭くすればいいわけです」。Think globally, Act locally. という言葉もそのような意味合いなのだと思います。日本で政治家や高級官僚と言われる人達を責める前に[彼らは責められるべきだと思いますが]、それを他山の石として自分の持分の半径をハッピーにする方向に生かせば、結果的に、1円×1億=1億円の論理で、社会は健全になると思います。前置きが?長くなりました)。

さて、昨日は同志社女子大学側のWifi状況がよくなかったようで(このどこが悪い?は場所の特定のが難しいです)、計4回止まってしまいましたが(2回は私が話をしている最中でした)、ゼミメンバーの早急な対応でそれほどフラストレーションを感じることなく進めることができました。

ポスターセッションと春学期のまとめを行ったのですが、しめくくりに相応しい充実したセッションになったと思います。強く感じることは前置きに長々と書きましが、以下の3点です。

1a. 自分達のゼミに17名が責任持とうとしている
2a. 仕事の分担を公平 (being fair) かつ平等 (being equal) にしようとしている、誰かに任せってきりにしない
3a. 楽天的ものごとを進めようとしている

また、それぞれに対応する形で具体的な行動として、以下の特徴を見て取ることができたと思います。

1b. コンピュータの設置設定に象徴されるように縁の下の力持ちになることをいとわない
2b. いろいろな局面でゼミのリーダーが入れ替わる
3b. 大学行事も含め、どうせやるなら楽しく進めようとしている

4月9日の4回生第一回ゼミから終わってみるとあっという間でしたが(その意味でもこのブログにこと細かく記録しておいて良かったと思います)、いい成果を上げてきていると思います。ただ、「百里を行く者は九十を半ばとす」という「戦国策」の戒めにあるように、本当にまだ半分なので、敢えて「ゼミはこれからです」という気持ちで気持ちを引き締めて「世界一のゼミ」を目指して新たな考えをめぐらせたいと考えています。春学期、多くの方々にお世話になりました。特に、Kitao先生、TAのKさん、事務室の池内さん、三浦さん、スタッフの皆様には一方ならぬお世話になりありがとうございました。これらかも無理難題をお願いすることがあると思いますが、引き続き、ご支援を賜りますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

さあ、夏休み!

(2018.7.24)

★今回の教訓:若ゼミ 17期生に餞別に頂いた2018カレンダー。7月の欄は「夏は汗も書くが、収穫も多い」と一言が。オックスフォードも史上最高に熱いといわれる夏だが、こちらでも頑張りたい。
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オックスフォード通信(117)イギリスは世界の京都?

イギリスは世界の京都?
こう書くとワカモトも遂にイギリス礼賛主義者に成り果てたか?と思われるかもしれませんが、もちろんそんな事はありません。

さて、ロンドンという街が世界中にあるのは有名な話です

例えば、カナダのオンタリオ州のロンドンはかなり大きな町でその存在を知られた街ですが、其の他にもアメリカにもロンドンはありますし、英語圏であれば世界中にあると言っても過言ではないかもしれません。

特にロンドンの街を歩いていると、地名や人名から、例えば、Wellingtonはニュージーランドの首都ですが、Duke of Wellington の像などに出くわすこともあります。

4月中旬に、BBCを見ていると Commonwealth Heads of Government Meeting 2018 という集会のレポートをしていました。よく見るとカナダのジャスティン・トルドー首相を始め、ニュージーランドやオーストラリアの代表(おそらく首相)が勢ぞろいしていました。そう日本語に直すと「英国連邦」という連合体のことを昔、中学校で教えてもらいましたが、それに当たるものです。

つまり、地名にしても、地球上の特に英語を母語や公用語にしている地域にとっては、イギリスは心の故郷のような存在なのではないかと思い始めました。丁度、日本人にとって京都が特別な存在だとであるように、英語圏の(アメリカは分かりません)皆さんにとってイギリス、特にイングランドは原点のような存在なのかもしれません。

日本に金沢や津和野など多くの「小京都」と言われる街がありますが、同様にまだ「小イギリス」が世界中にあるとイギリス人は思っているのではないでしょうか。または京都人が小京都に対して自分達が本物なんだと自負するところがありますが、同様の精神構造がイギリス人にもないと言えるでしょうか。

だからなのかと思うのですが、イギリスでは変化はなかなか目に見えないように思えますし、伝統を楯に融通が利かないこともずっと変わっていないように思います。それは変わらないのではなくて、イギリス人が変える必要がないと思っているからではないでしょうか。

京都に昔から住む皆さんが、京都の伝統と歴史に誇りを持ち、頑として変えない部分があります。それによく似ているように思います。少なくとも、英語圏に対して(恐らく世界中に対して)イギリスは精神的に今もその中心にあると無意識的に思っているのではないでしょうか。

今、テレサメイ首相がトップのイギリス保守党、およびその政府は Brexit (いわゆるEUからの脱退)の方法でもめに揉めていますが(かき回すだけかき回して、交渉の結果が妥協しすぎで理念が失われたと言って閣僚を辞任したボリスジョンソンはやっぱりな、という感じもします。このような混乱だけ生み出して責任逃れをするような政治家は世界中にいます)、これもまた亡霊のようにイギリスの独自性にこだわり、移民問題に端を発していますが、EUの中で平均化されるのを良しとしない心情が共有されているように思います。

じゃあ、日本の役割は?と考えると、いつまでもアメリカとの連携ばかり追いかけるのではなく、本当にグローバルにものを考えるようにマインドセットを変更するいい時期に来ているように思います。そこに英国や米国の英語ではなく、国際語としての英語が、ジグソーパズルのピースのように上手くハマってビッグピクチャーが完成するように思うのですが。

(2018.7.22)

★今回の教訓:イギリスは世界の京都、というメタファーはどうだろう。結構イケるのではないかと思うのだが。マインドセットを変えないと日本の閉塞感は払拭されないように思う。
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オックスフォード通信(116)第16回英語英文学科ポスターセッション(前編)

ポスターセッションが開催されました。

これは春学期のしめくくりという意味もありますが、卒業論文の中間発表という意味合いをもっています。本来は、7/7(土)に予定されており、それに向けゼミ内でのリハーサルなど万全の準備をしてきたのですが、西日本豪雨の影響で21日(土)に延期されていたものです。

私は最初はフルに参加しようと内心思っていたのですが、純正館のWifi状況や入れ替え時間を含めた15分間という限られた時間の中では難しいと判断し、イギリスから声援を送ることにしました。

インターネットゼミを14回積み重ねただけあって、メンバーがいろいろと知恵をしぼり、各自の発表はデジタルビデオカメラ(SDカードを購入しました!)にフル録画し(後の作業を勘案し、各自の発表の合間にはポーズをいれる)後にYoutubeのグループシェアでイギリスからも閲覧できるようにする(この日はKitao先生も校務の会議のため参加できなかったためこのビデオはとても役に立つと思います)、また各自の発表の最初の1分間をスマートフォンで録画し、ゼミLINEにすぐに共有する。

私はリアルタイムで全部見ながら、念力で応援しようと思っていたのですが、立ちはだかったのは時差の壁。日本でポスターセッションの開会式は午前9時半(英:午前1時半=まだ大丈夫)、発表開始、午前10時(英=午前2時、大部あぶない)と午前11時頃(英=午前3時)まではLINEにほぼリアルタイムで送られてくるビデオを観ながら応援していたのですが、ふと気づくとイギリス時間=午前6時前(日本時間午後2時)となっておりました。すいません、睡魔につい足を踏み入れてしまいました。合計10名はほぼリアルタイムで見れたのでよしとすべきでしょうか。

しかし、LINE(本当に役に立ちました!)に送られててくるビデオや写真を見ながら、若ゼミ18期生、ひとりひとりの成長とゼミとしての確かな躍進に熱いものがこみ上げてきました。夜中でしたが。今回はポスターセッションとしてははじめて全編英語でのプレゼンテーションでしたが、リハーサルのと時よりもグンと自信にあふれた発表をしていました。またゼミとして和気あいあいとしたムードがよく伝わってきました。これも実行委員を務めてくれたAさんとRさんの尽力が大きいと感謝しています。

最初にゼミ全員で記念撮影をしている姿も嬉しかったことのひとつです。言われなくても自分達で全員揃っての写真を撮ろうとする姿勢にジーンんときました。自律性は確かなものになってきています。実は毎年4回生全員でも撮影しているのですが、今年は誰も言い出さなくてないのかな、と思っていたら、事務室のIさんからその写真が送られてきました。

とかく、自分がいなくては・・・と思いがちなところがあるのですが、いなくてもちゃんとみんなでやってくれるのだなあ、と来年帰国した後も、肩の力を抜いて、他の人にどんどん任せてゆくべきだと再認識することもできました。

当日は、若ゼミの先輩も応援にかけてつけてくれるなど幸せな気持ちにしていただいたポスターセッションでした。明日はこの続きを書きたいと思います。

(2018.7.21)

★今回の教訓:若ゼミ3期生が立ち上げたポスターセッション。学科正式行事になって8年くらい。13人が蒔いた種は着実に成長している。
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オックスフォード通信(114)アフリカからの研究者

ひょんなことからアフリカからオックスフォードに来ておられる方々と昼食を共にしました。

ひとりは、ブルキナファソのピーターさん、もう一人はギニアのサマーさんです。

お二人とも医学系の研究をオックスフォードでしておられるとのこと。サマーさんによるとギニアのOfficial Language はフランス語で、母語は現地の言語があるとのこと。日本の中学に当たるSecondary School から外国語学習が始まるとのことですが、サマーさん(うーん、30代後半かな)の頃はアラビア語で、現在は英語が該当するとのことです。

他に一緒にいたのは、法学を研究しておらえる日本の研究者のKさんに、シリアの研究者(ビジネス研究)のオマールさんです。

当たり前と言えば当たり前ですが、このような集まりで使われるのは英語です。これはオックスフォードだからではなく、場所がパリでもアムステルダムでもニューヨークでも同じだと思います。英語を国際語として使うというのはこのような場面なのだと実感できます。英語を母語とするいわゆるネイティブ・スピーカーはひとりも含まれていません

いろいろな話をしたのですが、思ったのはアフリカについてほとんど知らないと言うこと。ちなみにサマーさんは日本の長崎大学で7年間研究生活を送っておられたので京都をはじめ各地を訪れたことがあるようで日本通です。

さて、まず地理が分かりません。ピーターさんは陽気な感じの方ですが、ブルキナファソと言われても、アフリカのどこにあるのか、説明を聞いてもイメージが沸きません。ギニアでやっとそういえば高校の世界史や地理で学んだな、というくらいです。ただサマーさんにギニアについてお聞きしていると徐々に分かるところは分かってきました。季節は雨季と乾季で、今は雨季に当たるとのこと。医者はギニアでも尊敬される職業で待遇もいいため、医師免許をとるとフランスで医師をするためギニアを離れてしまう人達が多いとのこと。

サマーさんはあまりアクセントがありませんが、互いに聞き返すことが多いのも特徴です。ただ一方的にどちらかが「分からなくてごめんなさい」というような卑屈な気持ちにならないのも面白いところです。

つくづく、私はアフリカについて知識がないな、と思ってしまいました。私が大学時代にヨーロッパ旅行をした際に、モロッコを訪れたことがあるといったら話がもりあがりました。このような出会いがアフリカについて興味を持つキッカケになるのでしょうね。シリアのオマールさんについてはまた別の機会に書きたいと思います。

(2018.7.19)

★今回の教訓:世界各国から研究者が集まっているのもオックスフォードの強み。京大もそのはずなんだがあまり交流の機会がないような。気のせいか。
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オックスフォード通信(103)ワールドカップ放映時間

セカイはヨーロッパ(アメリカ)を中心に回っている
イギリスはサッカーワールドカップで盛り上がっています。本日の土曜日も午後3時からモスクワからの生中継があり、スウエーデン相手に好試合が展開され、2-0でイングランドが勝利を収めました。これでイングランドはベスト4になり、ロシアとクロアチア(英語ではくろあしあと発音しています)の勝者とSemi-finalを戦うことになります。

BBCをはじめ硬派のThe Guardianもイングランド一色で何十年ぶりのベスト4を国中(と言ってもスコットランドやウエールズが応援しているかは定かではありませんが)で盛り上がっているようです。イギリスにたまたま在住している私も、ジャパンのようなクリーンなフェアプレイに徹するイングランドをつい応援してしまっているのですが、何かがおかしいように思います。

私はこのサッカーワールドカップ、史上際長時間と言っていいくらいTV(BBCまたはiTVチャンネル)で観ています。ある時は University Clubで、ある時は Pubで、そしてその他は自宅のTVで。

そう、見ることができる時間帯なのです。午後3時または午後7時から(すいません、昼間から見ています)。じゃあ、日韓共同開催だった2002年のW杯の時はどうだったかというと、私の関心が薄かったからかもしれませんが(通信94参照)見ることが難しい時間帯(午前中など)に設定してあったように記憶しています。

世の中は欧米を中心に回っているのです。

W杯がアジアで開催されようがロシアで開催されようが欧米のお茶の間(またはPubの時間)に合うように設定してあるのではないでしょうか。

ライブで見るとドキドキします(本日はウインブルドンの3回戦で錦織圭の試合もライブで放映していました)。録画とかハイライトで見るのとでは雲泥の差とは申しませんが、かなり違うのは事実です。

Blackwell’sという世界最大と言われギネスブックにも載っている本屋さんがオックスフォードのシティーセンターのど真ん中にあります。そこに置いてある世界地図を見ると改めて愕然ときます。当たり前かもしれませんが、地図の中心は日本ではなくイギリスです。その東にアメリカ、西にヨーロッパの諸国が並びます。日本はというとFar East = 極東、本当の地図の端っこにあるのです。ガリレオガリレイが地動説を唱える以前は、地球は球形ではなくテーブルのような四角形であると信じられていた時代と比較することは適切ではないと思いますが、日本はいわば地の果ての国なのです。

いまだに政治経済は分かりませんが(おそらく)、文化の中心はイギリスや欧米であると私の半径500km以内に住んでいる人は信じていることでしょう。

遠くから私達はイギリスにやってきているのですね。このことは英語が世界共通語であると信じているイギリスやアメリカの人達のメンタリティーと似たところがあると思います。

だからこそ、古くて、非効率なシステム(例えば交通機関)や生活風習(例えばトイレ)も自分達のものが一番だと思い込んでいるのかしら、というと飛躍しすぎなんでしょうね。

3年前 の年末 (2015-2016) にニュージーランドを旅した際に、地図の中心が南半球のニュージーランドで北半球が地図の下にあったことを思い出します。

John Lennon が歌ったように(Imagine)、上も下も中心もないから丸い地球なのだと思います。

国をベースにしたブログを書いていること自体、考えが古いのかもしれません。国境も国もないという発想に立たなければ、いつまでも中心の取合いがつづくことなんでしょう。

(2018.7.8)

★今回の教訓:国際化と言われる時代になればなるほど、地域性や国民性が強調されるのは逆説的なことだ。だが自分の心を覗いて見ると必死でW杯で日本やウインブルドンの錦織を応援している自分がいる。グローバル化、民族性、言語、文化、アイデンティティ、難しいが根っこは同じだと思う。
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オックスフォード通信(100)Oxford University が世界一の秘密(7)優れた研究ツール

大学内で開かれたワークショップに参加してきました。

今回は質問紙などの調査をインターネットでリサーチ用に実施するためのインターネットベースのソフトウエアです。

今回の在外研究の裏(サブ)目的は世界一と言われるオックスフォード大の秘密を探ることにありますが、本日のワークショップに参加して、またなるほどと納得しました。ケチケチしないで研究ツールを無料で豊富に用意し、そのためのワークショップも提供するというもの。

SPSSまでは同志社女子大学でも無料で利用できるのですが、オックスフォード大ではそれに加えて質的研究ツールのNvivoも大学関係者(IDを持っている人=学部生、大学院生、教員、研究員 [=私はこれに当てはまります]、職員)なら誰でも利用できるのがすごいところです(但し、1年毎の更新)。

質問紙作成には、Google Docも使いやすく有効ですが、特にセキュリティーやアカデミックで利用する際には十分とは言えません。

1時間でのワークショップで全てマスターできるわけではありませんが、概要が分かり使ってみようという気になって来ます。

みなさんのお手元に「質問紙調査のお願い」というメールが届いたら(このブログでも告知・お願いをするかもしれません)その節は是非どうぞよろしくお願いします。

データベースや(通信28参照)研究環境を整えること、それは当たり前のことのように思えるかもしれませんが、なかなかできないことです。逆にいうならそのような研究環境がない状態で研究を増やせ、という方が無理なことなのかもしれません。口幅ったい言い方ですが・・・(やめます・・・この続きはご想像にお任せします)

オックスフォードに到着してから本日で丁度100日目この通信も100回に達しました。続けられるところまで続けようと思って始めたものですが、みなさんからコメントも頂いたりして(勝手に結構たくさんの皆さんに読んで頂いていると妄想しています)励まされたのが続けることができた理由の一つだと思います。ありがとうございます。

不思議なものですが、書きたいことは最初に決めて書くのですが、書きながら新たな発見があります。アウトプットの重要性を自分自身でも実感するところです。イギリスでの在外研究も1/3が終了。何か成果になるものを創り上げたいと思うのですが、このブログもささやかながら今回イギリスに来ることを契機に始められたもので、自分の考えの移り変わりを見てとれるのが面白いと思っています。完成してから(え、365日書くつもり?)先に述べた、Nvivo などの質的データ分析ツールで分析してみるのも面白いと思います。

このはてなブログはとてもいいのですが、一点、自分のブログ内で検索できないのが問題だと思っています。現在、少しずつWordPress利用のブログに移行していますので(そちらの方が見やすいかも)、よかったらそちらでもご覧ください。事の顛末:自身のHPが大学から追い出されたのを機会にNTT Biz ウエッブ&メールエコノミーに加入しました (http://wakamoto.orgというドメイン名も取得)。正確には大学が教員用のHPサーバーを、HPを開設している教員が少数であるからという理由から廃止したためです。その際会議でも反対意見を述べたのですが、HPを自分で作っていない人にどれだけその重要性を言っても無駄ですね。でもピンチがチャンス。月々1500円でサーバーを利用させて頂いています。2012年のことですのでもう6年になります。HPだけでなく今後はそのブログも活用したいと思っています。

(2018.7.5)

★今回の教訓:時間を有効に使うとは役に立つことに時間を使うこと。こうなったらどうしようと心配しても何も産み出さない。行動あるのみ、という人もいるが言っていることは同じ。考えて役に立つことだけに絞って考え、それ以外は行動しながら考えるといい。Your time is limited. これは私のような外国で研究生活を送っている人だけでなく、大学生を始めすべての人に当てはまることだろう。
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オックスフォード通信(92)Hillary Clinton in Oxford

前国務長官でトランプとアメリカ大統領選挙を争ったヒラリー・クリントンさんの講演会がオックスフォード大学で開催されました。

といっても、チケット(無料)は瞬間的に売り切れとなってしまったのでFacebookを通しての生中継(午後5時半から)を見ました。

若者に期待している、民主主義の未来に期待している、女性の権利(Women’s rights are human’s rights and human’s rights are women’s rights) 、この3つのことについて約1時間の話でした。分かりやすい言葉を選び、プロクターがあったにせよ、聴衆とアイコンタクトを取りながらのいい講演だったように思います。

特に、時間はかかるが人類が進歩するにはデモクラシーは最も優れた方法であるという点には大いに納得をしました。トップダウンで物事が決まることが大学でも最近は多くなってきました。その割にはその決定過程が明確でなかったりその方針に首をかしげるものが多かったり、結果責任をそのトップダウンを決定した人達が潔く引き受けることもないのが現状です。現在のトップダウンは途中プロセスをすっとぱした単なる手抜き民主主義だと思います。ヒラリーさんの講演を通して、もう一度民主主義の手順を考えてみなければと思えたのはよかったと思いました。特に、民主主義的の結果、決定した結果責任、検証について考える必要があると思います。

ところで、昨日(火曜日)に参加したPhisiology 学部(生理学)のセミナーで「自信と意思決定の関係」という講演がありました。数式の部分は良く分かりませんでしたが「自信を持って間違えた場合と、自信がなくて成功した場合」から人は多くを学ぶという結論にはとても興味を覚えました。逆にいうと「自信がなくて失敗した場合」(及び自信があって成功した場合)からは人は学ばないということです。

民主主義ではこの自信がない場合の意思決定が大きいのではないでしょうか。特に、自信が無くて失敗する場合が。この場合の責任は誰が取るのですか?というと自分は自信が無くて意思決定に参加しているわけですから、実は個人的には反対だったけど多数決でそう決まってしまった、自分の意見は正しかったわけだから責任を感じたり、そこから学ぶことは少なくなってしまうと思います。戦争責任がその典型的な例です。個人的に戦争に賛成する人は(ほとんど)いるわけがないので、みんながそう決めてしまったから仕方ない、私には責任はない、よってそこから反省もなく、次に生かすことはできなくなります。トップダウン方式のエセ民主主義の場合にはトップダウンした本人は自信満々で望んでいるわけですから、本来は痛切な反省や責任を感じるはずですが、その部分だけ「みんな」に責任転嫁してしまう。皆んなが賛成したのだからと。

演説に戻ると、正直なところ、ヒラリーさんの美しい言葉とは裏腹に何か違和感を感じたのは私だけだったでしょうか。それは決してヒラリーさんが大統領選挙に敗北した敗者の遠吠えだったからというわけではなく、自分は引退するけど若者は頑張ってねといっているように聞こえたからでもなく、恐らく大統領選挙中にも投票権を持つアメリカ国民が感じたであろう違和感です。

言行不一致という言葉で表してしまうと少し違うようにも思えますが、ヒラリーさんの言う民主主義はあなたの又はあなたが重要だと思う人達にとっての民主主義であって、そこに含まれていない人達は見捨てられているのではないか、と言う危惧です。確かにマイノリティーや女性の権利を述べていますが、その一方で「正義」のためであれば他国にミサイルを打ち込んでも仕方ないと思っているのではないかと言うことです。簡単に言うと民主主義のためなら沖縄のオスプレイが墜落しても「仕方ない」と思っているのではないかという危惧です。

彼女の言葉通りに民主主義のために若者が立ち上がり、世界の平和のために尽力するのはいいことですが、ヒラリーさんの正義のために尽力するのとは少し違うな、と思うのです。事実、1%の人達が99%の富を独占していることに反対運動を起こした若者はヒラリーさんを支持しませんでした。逆説的ですが、とても民主主義とは縁遠く見えるトランプの方が世界平和に貢献しているように見えます(例えば最近の米朝会談)。そう考えるとヒラリーさんの考える民主主義って本来の民主主義とは異なるものなのではないか、とも思えるのです。

いい演説だったと思いました。でも、生の話ってここに述べたような微妙な違和感を伝えてくれるので面白いです。質問を受けることもなく、演説が終わってそそくさと帰っていかれた姿勢にもそれは現れているように思えました。

念のために、私はヒラリーさんは嫌いではありません。

(2018.6.27)

★今回の教訓:今こそデモクラシーを、デモクラシーについて議論しようというヒラリーさんの訴えは逆説的だが正しい。その結果、アメリカのデモクラシーとは異なるデモクラシーの結論になろうとも。
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