オックスフォード通信(365/00)さらばオックスフォード!

ひとは何を目指して生きるのでしょう

オックスフォードではいろいろなことについて考える機会がありました。もちろん、よく生きること、社会に貢献できるような生き方をすることは重要だと思います。でもそれ以上にその人が生きがいを感じたり、楽しいと感じたりすることが生きている中にあることが重要だと思います。

と、ここまで書いてこれもまた少し違うようにも思います。オックスフォードの中心街のコーンマーケットでほぼ一日中、ギターの弾き語りをしている方がいます。大抵ボブディランの風に吹かれて(Blowin’ in the wind)を歌っています。なかなかいい声で歌詞が心に響きます。

この歌声を聞いていると何かを目指して生きて行くことが間違っているのかもしれないと思えてきます。目標とか考えすぎると大切なものをその過程で見逃してしまうのかもしれません。

イギリスでは自分の意図と関係なく多様な生き方を目にしてきたように思います。そのような中で、強く感じるのは日本人は本当は幸せであるはずだということです。変な言い方ですが、現在の経済・社会状況を世界的にみると日本はかなり好条件の恵まれている環境にあると思います。なのに、なぜか、幸福感が漂ってこない。

それは目標を立てすぎたり、人と比較をし過ぎたりしていることもあると思いますが、何よりも、間違ったこと、それが多少であってもそこに目が行きすぎて、多少の反対のよくできていることに目が向いていない事だと思います。ひと言でいうと、日本のいいところ、同僚のいいところ、友だちのいいところ、学生のいいところ、子どものいいところ、親のいいところを見ようとしてないところに問題があるのではないかと思うようになりました。

特にテレビの影響は甚大です。ゴシップ的な内容はイギリスではほぼ取り扱われることがありません。それを得意とする新聞をのぞけば新聞でもテレビでもゴシップネタは目にすることはありません。ゴシップとは極論すればスタンダードからの逸脱だと思います。日本はその逸脱の幅が極端に狭いようにも思います。それが窮屈に思ってしまう原因なのかもしれません。

よくグローバル社会とかグローバル化と言われますが、世界と比較して日本の優れたところをもっと互いに認め合い、そこに自信をもつことこそがそのひとつの方法ではないかと思います。

いよいよ本日、オックスフォードを離れます。Before Oxford (BO) とは異なる視点をもってAfter Oxford (AO) の日々を過ごしてみたいと思っています。

このブログもオックスフォード通信 1号からこの365号まで何とか続けることができました。これも皆様の温かいご声援のおかげと感謝しております。このブログを書きながら自分で発見することも多くありました。特に、ブログを書くことよって、1日1日を大切に過ごすことができたように思います。これをひと区切りとして更なる発展の道を探ってみたいと思います。引き続きご支援賜りますようどうぞよろしくお願い申し上げます。

★今回の教訓:あらためてイギリスは奥深い国だと思う。と同時に英語も面白い研究分野であると改めて実感。

(2019.3.27)

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オックスフォード通信(362/03)Movie Theatre

Green Bookという映画を観てきました

あまり期待をせず、日本に帰る前にWestgateのCruzon(映画館)で一本見て帰ろうと思っただけだったのですが、期待以上に心を静かにしかし確実に揺さぶる映画に出合うことができました。

こちらの映画館はゆったりしていて、上映前にワインやビールを飲みながら待つこともできますし、座席には小さなテーブルがついていますので、飲みながら映画を観ることもできます。このような非日常的なところからエンタテインメントが始まっているのだと思います。

私は175ml(その次は250ml)ですので一番小さなサイズのホワイトワインを注文して30分くらいロビーのソファで映画について想いをめぐらせていました。サービスだったのかかなり大目に入っていたので飲みきるのに時間がかかってしまいました。まだグラスを片手に座席までは行く度胸(?)がないので、本編が始まる時間をあらかじめ聞いていたので、その少し前に座席に着きました。

少しビックリしたのは、ほぼ一杯だったからです。今年に入ってからははじめてですが、昨年は何度もこの映画館に来ているのですが、いつもまばらで、ひどいときにはお客さんの数を数えられるくらいでした。土曜日の夕方ということもあったのかもしれませんが、さすがアカデミー賞の作品賞のインパクトは大きいようです。

割とあっさりとしたCMや映画の予告編の後(日本の映画館はやり過ぎですね、これでもか・・・というくらいいろいろなCFが入ったり上映予定の映画の予告編が多すぎたり)いよいよ始まりました。

Green Bookとはホテルのリストを載せた冊子のことで、Dr Shirley がイタリアからの移民のTonyを運転手に雇って特にアメリカ南部でのピアノトリオの演奏に回るというストーリーです。時代は1960年代ですので、黒人差別がひどく、同じレストランで食事ができないとかトイレが別になっていると理不尽なことが多くあるのですが、映画としては徐々に芽生えてくるShirleyとTonyの友情を軸にカラッと描いています。特に、一度も食べたことがなかったケンタッキーフライドチキンをTonyがShirleyに勧めるシーンは面白いところでした。イタリア系移民社会の人情深く、義理堅いところが黒人差別をものともしないところ、またどのような差別にも毅然としているShirleyにも共感できるところです。

黒人差別と正面から戦うのではなく、差別がある社会でも毅然と生きようとするShirley。それを守り抜くTonyの人間味のあるところに心が揺さぶられます。人はスローガンでなく友情で動くのだと感じ入らされる好映画に出合うことができました。

この映画は日本語も英語も字幕なしでみると、よりShirleyとTonyの言っていることが心に響くと思います。

★今回の教訓:いい映画は見終わった後にもウイスキーのように成熟していくものだ。いいものとはそういうものだろう。一時の感傷に終わらないところがいいことの証明だ。

(2019.3.24)

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オックスフォード通信(360/05)Queue考

イギリス人は行列が好きです

好きです、とうのは変な言い方ですが、何かあるとまず行列を作り、しかも静かに文句を言わず並びます。得意と言った方がいいかもしれません。

オックスフォードからロンドンへ行くには、最終的に、バス、しかも (Oxford) Tubeバス(X90よりも格段に安く £15で往復できる)で決まり、と思っていました。24時間走っているし、バスの中はまずまず快適です。

イギリス滞在も残り僅かとなってきましたので、本日は、資本論を書いたカールマルクスのお墓がロンドンにあるというので、これは行っておかなくてはと思い、朝一でTubeバスに乗ってロンドンに出かけています。マルクスについては機会があったから書かせて頂きたいと思います。

問題は帰りのバスです。折角なので(これが多い)いつものMarble Archからではなく、そのひとつ先のNotting Hill Gateから乗ろうと考えました。これは、乗る前にパブで一杯ビールを飲もうと思ったからです。Marble Archは名前の通り大理石の凱旋門がハイドパークの横にあるところですので、残念ながら回りに手頃なパブがありません。

いい感じのパブをNotting Hill Gateのバス停近くで見つけて、さあそろそろ帰ろうと思ったのが午後6時くらいです。すでに3-4人並んでいます。金曜日の夕方ということもあり、人出が他の曜日よりは多いのか、また時間的にも混む時間帯なのでしょうか、なかなかバスが来ません。

行列(Queue)は徐々に伸びていきます。しかし誰も文句をいうでもなくジッと列の中で立って待っています。Tubeバスは15-20分に1本と謳われていますので、そろそろ来る頃なのですが30分経ってもまだ来ません。でも誰も文句も言わずジッと並んでいます。若干私の後の2名の女性は少しブツブツ言っています。ようやくバスが来たのですが「Sorry, coach is full」との文字が。

はじめて見ました。ひょっとしたらいつもMarble Archから乗っていましたので、この表示はいくつかのバス停では出されていたのかも。

日本なら「エー」とかため息が漏れると思うのですが、文句を言う人もいません。まあ、仕方ないね、くらいです。ただ先ほどの2名の女性は頭がきれるのか、このままでは次のバスも満員で乗れないかもしれないと思ったのでしょう(実際、次のバスは5名しか乗せてもらえませんでした)、反対側のビクトリア駅行きのバスが到着すると小走りで道を横断して(危ない!)運転手に交渉して無料でバスに乗り込んでいきました(たぶんです、反対側からその様子を見ていました)。

確かにそうする方が賢いと思ったのですが、このQueue文化ではそれはCheating=ずるいことのように思いました。その二人は行列では私の後だったのですが、そのバスでMarble Arch に先回りすることによって、次のバスでは2名分の座席が足りなくなることになります(事実そうなりました)。

面白いので回りを観察していましたが、それについて文句を言う人も、それについていく人も誰もいませんでした。代わりに、私の前のカップル(私が来たときには既に並んでいた)はバスに乗れなかったことで発想を変えたのか、Queueを離れ、向かいのイタリアンのレストランに入っていきました。

更に、40分くらい経って次のバスが来たのですが、5名だけ乗れるとのこと。どうするか見ていたのですが、ここでは案外たまたまバスの乗降口の前にいた人はスルスルと乗り込んでいきます。それは違うだろうと思い、前から並んでいた女性2名に順番をゆずり、幸運にも私の番が来たのでバスの乗り込むことができました。

そのスルスルとというところでも、大声で誰かが文句を言ったりするでもなく、不満の声があがるわけでもありません。日本ならそれはズルイ!とつかみかかる所までは行かなくても叫んだり、近くの人とボソボソと言ったりすることでしょう。

淡泊なのかそれとも達観しているのか、それとも大方上手くいっていれば細かいことはいいとしようとするのか、Brexitまであと1週間となっても誰もわめいたり(MP=国会議員はどこの国でも別です)せず事の行方を見守っているように見えます。

不満というものを述べることはこの国ではあり得ないことなのでしょうか。日本とは異なる風景が広がっています。

★今回の教訓:Queueは間違いなくイギリス文化を象徴するキーワード。誰か論文を書いていないかな。少なくともイギリス人はあまり焦ったりイライラしたりはしないようだ。Queueを作ることが合理的な問題の解決方法ということなのだろう。オックスフォードに帰ってきて市内バスに乗ろうとすると長いQueueが。列の最後はどこかと探すと女性が少し離れて立っていた。Are you in Queue? Yes, of course. Queueを飛ばさなくてよかった。

(2019.3.22)

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オックスフォード通信(359/06)St. Patrick’s Day

日曜日 (3/17) になりますが、ロンドンにいましたので夕方トラファルガー広場でのSt. Patrick’s Dayのコンサートをのぞいてきました

2月に訪れてから、アイルランドに対する興味が高まっています。実際ダブリンのSt. Patrick教会は足を踏み入れることはできませんでしたが、バスでその前を通る機会がありました。

緑とクローバー、それにギネス。トラファルガー広場はお店は全部アイルランドに関係したもの、参加者は何万人という人数が集まっていましたが、St. Patrick’s Dayのコスチュームやタトゥーをしている人は思ったほど多くはありませんでした。午前中にはパレードがありましたので(見逃しています)そこではみなさん緑一色だったのでしょう。

先日のニュージーランドでの銃の乱射事件の影響もあり、入り口では念入りな荷物チェックがあり、それを終えると広場に・・・となるのですが、正午くらいからはじめったコンサート会場に到着したのが午後3時半くらいでしたので、もう下の広場は立錐の余地もないくらいの人で埋め尽くされていました。

私が見ていた時にはアイルランド出身のバンドが演奏していました。独特の哀愁を帯びたあのメロディーと子どもによるタップダンス、いいですね、アイルランドで観たコンサートの風景が頭に浮かんできました。

あのメロディーは誰にも懐かしい心の奥底に響くものがあると思います。バグパイプの演奏もありました。人を幸せにしてくれるものです。

映画で取り上げられることも多いので(Ferris Buller’s Day’s Off The Fugitive(逃亡者・ハリソンフォード)一度、実物を見てみたいと思っていましたので、コンサートではありましたが、その雰囲気に浸ることができました。

★今回の教訓:みんな笑顔と満足感にあふれた顔をしていた。音楽は(ギネスも)人に幸せを運ぶことができるものだ。

(2019.3.21)

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オックスフォード通信(357/08)リチャード3世

ロンドン・グローブ座でシェークスピア劇を見てきました

とはいえ、グローブ座で公演がされているのは4月から10月までの半年のみでその他の時期はSam Wanamaker Playhouse (寄付者の名前)という室内劇場でおこなわれています。午前11時からのグローブ座のGuided Tourに参加した後、午後1時からの公演という流れで参加しました(1時間半+15分の休憩+1時間)。

グローブ座のツアーも中々興味深くその歴史から現在3代目となっている建物のいわれについても詳しく教えて頂きました。創建当時、ロンドンの人口は20万人程度、城壁で囲まれた(シティーもここから)割りと小さな範囲で、当時のテムズ川の川幅は現在よりも広く、市民は対岸に住んでいてそこから船で劇場にやってきていたようです。夜になると治安が悪くなるので演劇は昼間のマチネでおこなわれていたのことです。

ロンドンの街を歩いていて、例えばビッグベンの辺りに、住所を表す看板に、City of Westminster とあるのを不思議に思っていたのですが、以前のロンドン市の領域は説明の通りぐんと狭い地域だったため、国会議事堂のある辺りはロンドン市に含まれていなかったようです。当時の区域割りを忠実に踏襲しているのにもビックリします。

グローブ座はグランドレベルが1ペニー、上に高くなるにつれて1ペニーずつ料金が上がっていったようです。同じ場所に再建されていませんが大きさと形は同じだそうです。当時で3000人、現在のグローブ座で1500人が収容人数の上限だそうです。当時は体格も現在のように良くなく、背格好も小さかったため現在の倍の人数が入場することが出来たそうです。

見学した際、たまたま地元の中学校の演劇ワークショップの発表会が開かれていました。子どもと思えない堂々とした態度で演じているのに感銘を受けました。

リチャード3世は、暴君として好き放題していた王様が従兄弟のヘンリー4世にその座を追われ最後は殺害されるという割とシンプルな筋書き。ただ演出は凝っていました。まず役者は役柄に関係なく全員女性でした。不思議なのは見ている内に男性女性ということが全く気にならず、王様ならそのまま王様に見えてくるのが演出の妙ということなのでしょう。音楽は生演奏で要所要所で効果的な音楽を響かせていました。舞台装置は前面に竹の壁が作ってあって、イングランドやアイルランドではなくて、アフリカかアジアのどこかの場所設定のような雰囲気がでていました。本当のロウソクだけで照明効果を上げていたのも特徴的です(日本ではできないかもしれません)。

Wanamaker Playhouseはとても小さな劇場で、その割には人数は割と沢山入れるようですが、舞台と観客席がとても近いのが印象的です。

リチャード3世を2時間半見てて、王という種族ははかないものだと思いました。平家物語にも通ずるものがあります。トップの座にいるものはその時には多くの人がちやほやするのでいい気になりますが、いずれその座を追われることになります。これは王に限らずトップの座に君臨するものの定めと言ってもいいかもしれません。その座を滑り落ちたリチャード2世に人間的な側面が多く見られるのが面白いところです(王の座にいるときには王という立場にその人の人間性がのっとられているかのようです)。王と違って普通、殺されるところまではいきませんが、NISSANのゴーンさんをみているとリチャード3世と似たような運命をたどっているともいえるかもしれません。

1616年にこの世を去ったシェークスピアですが、死後400年を経てもその言葉や筋書きにハッとさせられるのは、音楽のベートーベンと同じ偉大さがあるのでしょう。

PS. 演劇には教えられることが多い。Shakespeareが “All the world is a stage” というように私達は自分の人生を演じているだけなのかもしれないと思える。映画 “About time” でも示唆されているように「2度目の経験だと思って何事にも当たると落ち着いて対処できる」と思います。人生は舞台と実は同じ事を言っていることに気づきました。何事も役者が演じているだけのことかもしれません。それが成功しようとしまいと、関係ないのです。

★今回の教訓:同志社女子大学英語英文学科の教員としてはいずれいかなくては・・・と思っていた聖地のひとつグローブ座。案内してくれたEさんも役者なのでしょう、セリフ、いや説明の言葉がハッキリと聞き取りやすいだけでなく、顔の表情も自然に作っておられた。グローブ座はインパクトがある。

(2019.3.19)

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オックスフォード通信(355/10)第九

第九というと年末のイメージがありますがそれは日本だけのようです

Royal Festival Hallで開催されたロンドン・フィルハーモニーの演奏会に出かけてきました。ロンドン・フィルハーモニーはロンドン三大オーケストラといわれています。

この一年、いろいろなことがありましたが、いわばイギリス在住の締めくくりの年末のような気持ちでこのコンサートを聴いておりました。前半のメンデルスゾーンやマックス・ブルックのバイオリン協奏曲も美しい演奏でした。特にブルックはノルウェー生まれのSonoko Weldeさんが素晴らしい独奏を披露してくれました。満席の聴衆の心をつかむ堂々とした演奏に何か勇気づけられるものを感じました。

そしてベートーベン。何度この第九を聞いたことか。その一回一回が思い出されるようでした。どの楽章も素晴らしいですが、弦と弦が重なりあるフレーズにはこころを動かされます。およそ200年前に作曲されても色あせることなく人々の心をつかむのはその音楽に美と真実が含まれているからだと思います。

と、同時にネットでもCDでもTVでも体験できる音楽になぜわざわざ足を運ぶのか、についても想いをめぐらせていました。それはおそらく、生の迫力に勝るものは無いということだと思います。生であるだけでどうなるか分からない。例えば誰かが静まりかえった場面で大きな音をたてるとその音楽が台無しになります。そのような脆弱性を抱えた生であるだけに、その場にいる全ての人がそのコンサートが成功するように協力をする必要に駆られる。にしても、その後音楽がどういう展開になるか「誰にも」分かっていないところにワクワクするのとハラハラするのが交錯して音楽に集中するのだと思います。その結末がいい形でおわれば拍手喝采となるわけです。

まさにコンサートとは誰かの一生を2時間くらいで見ているような、そのような気持ちにさせるものかもしれません。これはコンサートだけでなく一回一回の授業にも当てはまるものかもしれません。

57年の生涯でどれひとつハズレがない交響曲を9つ作曲したベートーベン。彼の音楽から学ぶことはまだまだありそうです。

★今回の教訓:生の迫力は生でしか伝わらない

PS. 隣に座っていた老夫婦。ご主人はオックスフォードで博士号を取得されたと行っておられた(1957年!)。奥様は南青山に10年住んでおられたと。互いに離婚歴のある二人は日本で出会われたそうだ。日本はとても美しい国だと絶賛しておられた。立ち上がるのが大変な状況(ご主人)でもコンサートに出かけてくることに感銘を受けた。

(2019.3.17)

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オックスフォード通信(354/11)バベル展とイギリスのパスポート

オックスフォード大学ウェストンライブラリーでバベル展が開催されています

昨年の夏にウイーンでバベルの絵画をみる機会がありましたが、オックスフォードでたまたまバベルについての展覧会があるなど縁を感じます。

バベルとは天に届くような塔を作ろうとしたがそれに怒った神が皆が協力できないようにするために人々が話す言葉を異なる言語に分け隔てるようにしたといわれた塔です。この展示会もバベルに象徴されるように、多言語と相互の翻訳の世界を描いています。

展示会ではバベルの塔の挿絵や例えばイソップ物語がどのような言語からどの言語に翻訳されてきたかなどが分かりやすく展示されていました。中にはピーターラビットもイソップのひとつとして置いてありました。

特におもしろかったのは、SuperDry。こればビールではなくて(ビールから触発されたといわれています)衣料品のブランドです。わざとぎこちなく直訳して「極度乾燥しなさい」と日本語が沿えてあります。意訳ではなくて直訳してあるところに興味を惹かれるところです。

もう一つはイギリスのパスポート。1988年までのものにはBritish PassortとBritishという言葉が全面に大きく書いてあります。一方それ以降のものにはEuropean Unionという文字が。説明書きにもありましたがBrexit後、このパスポートの表記の行方も気になるところです。種類は異なるかもしれませんが、日本の新元号によって運転免許証の表記が変更になることと何か共通するものを感じました。

ことばによって何かのアイディアやアイデンティティーが伝わってきます。翻訳によってその部分が伝わるかどうかは微妙な所です。

バベルー言葉ー翻訳ーアイデンティティー、この線上にあるものは人間の根幹に関わる事項なのかもしれません。

★今回の教訓:もし全世界が同じ言葉を使っていたらどのような世界になっていただろう。ひょっとしたら宗教も同一になっていたかもしれない。

(2019.3.16)

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オックスフォード通信(353/12)Red Nose Day-Comic Relief

Red Nose Dayというチャリティー番組がBBCで放映されていました

日本でもチャリティー番組は例えば日本テレビなどが1年に1回おこなっていますが、BBCのような国営放送がおこなうのは異例ではないかと思います。

特に、今年の目玉は映画 “Four weddings and a funeral” (1994) から四半世紀ということでそのリユニオンのショートムービーが制作・放映されたことです。この映画は、映画 “Notting Hill” (19xx) や”About time” (201x) でも脚本を書いたCurtissの脚本によるものです。私の好きな映画の1本ですのでその続編ということで注目していました。

日本と同じでメインのプログラムはなかなか見せてくれません。午後7時からスタンバイしていたのですが、午後8時半になっても。少しうとうととしてしまったら、何と既にショートムービーの後半!しかしBBCにはiPlayerという無料のオンデマンドがあるので慌てず最初から見ることができました。

映画はヒューグラントの子どもが結婚するという設定(女性同士の結婚です)。Mr.ビーンも司祭役で登場しオリジナルと同じ言い間違えをしたりして笑いを誘います。25年経つとヒューグラントをはじめみなさん老齢の域に達している感じ。見落としがあるかもしれませんがほぼ全員が出席していたように思います。

その他はBreakfastのDan Walkerを含む登山隊がキリマンジャロに登頂したビデオなど3時間くらい(途中でテレビを消したのでもっと長かったかも)の番組も飽きずにみることができました。日本のチャリティーとはひと味違う、笑いとユーモアにあふれたチャリティー番組に仕上がっていたと思います。

★今回の教訓: “Four weddings and a funeral”は丁度私が同志社に着任の年。この映画と同じだけの年月を大学で過ごしたことに感無量。

(2019.3.15)

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オックスフォード通信(352/13)ムービングセール

引っ越しの準備が佳境を迎えつつあります

とはいえ、現在住んでいるフラットはファーニッシュト(Furnished)で家具付きですので売りさばく(?)品目は数が限られています。最大の目玉のはずだった車は廃車になってしまいましたので(それでも廃車によって£164、また自動車保険の解約で約 £100、払い戻しがありました)、ソニー製のテレビ(32型)、自転車2点、未使用の布団2点、デスクスタンド、延長コードくらいです。

さて、昔トロントのアパートを引き上げる際はNot Furnishedでしたので、全てのもの、それこそベッドからデスクまで売りさばく必要がありましたで気合をいれてオープンハウスをしましたが、今回はMoving Saleのメールを関連するネットワーク(オックスフォード新規居住者向け)に送ることにしました。

綺麗に写真を撮り、送信。すると、2時間以内に10件の問い合わせ(メールまたはText=SMS)。反応の早さにビックリしました。特に人気なのがテレビと自転車です。これで儲けようと思っていませんでしたのでかなり低めの赫々設定が良かったのかもしれません(自転車は £30と £5)。布団も昨日の内に完売。残りはデスクスタンドと延長コードですが、もうこれは誰かにあげて帰る方がいいかもしれません。

いよいよ回りも片付きはじめ、帰国が現実的になってきました。本当はBrexitとともにイギリスを去る予定でしたが、6月末まで延期になってしまったため、平穏に去ることになりそうです。

★今回の教訓:Moving Saleはなかなかスリリングで楽しい。反応があるのが面白い。魚釣りに似ている?そんなことはない。一度、日本の研究室でもやってみようかしら。(写真の自転車はオーストラリア人がご購入、 £30=4500円、ちなみに半年前に前輪のタイヤ交換= £30)。

(2019.3.14)

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オックスフォード通信(351/14)Brexit騒動

Brexitまであと17日、これは私の帰国日とも合致するものです

昨日(3/12)にはメイ首相がEUと交渉を重ねてきた修正案が前回に引き続き大差で否決されてしまいました。私はEU離脱には何もメリットはないと思うのですが、特に保守党(Tory)の強硬派には辟易としてしまいます。このままNO DEALとして離脱すると混乱するのは目に見えていますし、困るのは英国民でしょう。

それを喜ぶのは自分達の権益だけを守り、自分が生きている間だけは何事もなければいいという日和見主義です。EU離脱に賛成しているのであればどうするのか責任ある意見を述べるべきであると思います。メイ首相に働くだけ働かせて自分達はどこ吹く風というのはどこの国にも見うけられる人達です。

それにしてもメイ首相の粘り強さというよりは意志の強さと堂々とした態度には頭が下がります。ウソを言うことも、ごまかすこともなく、正々堂々というのがいいところです。国会中継も必然的に見る機会がありますが、議論は理路整然とおこなわれ、寝たりぼうっとしたりするヒマもそのようなムードもありません。だからこそ不思議なのはこの期に及んでこのゴタゴタぶりです。民主主義とはそのようなものかもしれません。

本日は、NO DEAL、つまり何の手段も講じないで離脱するかどうか、明日はBrexitを延期するかどうかについての投票がおこなわれます。これで今後10年程度のイギリスの行く末が決まってくるのではないかと思います。注視したいところです。

★今回の教訓:一国の首相には気品と弁舌の論理性が必要だ。言葉の種類には関係ない。

(2019.3.13)

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オックスフォード通信(345/20)イギリス英語

こちらに来てあまりイギリス英語とアメリカ英語の違いに注目してきませんでした

それはオックスフォード大学が世界中から学生・院生・研究者・先生が集まっているので、スペリングで例えば、realizeをrelise、centerがcentreと表記されるような特徴的な事以外には気が取られることがありませんでした。

アシュモリアン美術館勤務のPさんと今日話をしていて語彙の微妙な違いが面白いと思いました。書き記すような事でもないのですが、よく俗語で使われるassというのはイギリス英語ではロバという意味で人を馬鹿にする(その点では同じですが)時に使われ、通常のお尻という意味ではないとのこと。一方、その意味では、arse という言葉を使うとのこと。話がややこしいですがここまでくると単なる表記の問題でもないようです。

オックスフォードのバスにのるとMetroというフリーペーパー(ロンドンと共通)をもらうことが出来ます。中にはひと言ありがとう (Good Deed Feed)とか偶然会ったあの人に(Rush-Hour Crush)などの投稿のコーナーがあって面白い新聞です(このような新聞を授業で使うと面白いと思うのですが)。これが毎日発行されているのがすごいと思います(それだけのいい行いと偶然の出会いがあるのですね)。今日のその記事に、ロンドンの地下鉄でGospel Oak駅とBarking駅の間のOverground service路線についての記事がありました。Pさんに言わせると昔は、Underground (=tube; 地下鉄)に対して地上を走る電車は全てOvergroundと言っていたそうですが、現在では地下鉄なのに全路線地上を走る特定の路線のことをOvergroundと呼ぶそうです(私はピカデリーラインのようにヒースロー空港近くになると地上を走る部分のことかと誤解していました)。

アメリカ英語に慣れているとイギリス英語は分かりにくいと思うのですが、このようなunderground=overgroundなどの例にあるように(最も昔の意味の場合ですが)イギリスの方が分かりやすいことがあります。

発音についても、can = can’t は圧倒的にイギリス英語の方が発音しやすいです。canをアメリカ英語的に発音するとcan’tといっているように聞こえることがありますが、イギリス英語の、カン (can)、カーント (can’t) と発音すると誤解されることはありません。

国際語としての英語を使う場合には、「通じることを前提」にイギリス英語+アメリカ英語+カナダ英語+ニュージーランド英語+オーストラリア英語の日本人に使いやすいところを取捨選択することもあり得ると思います。すると、日本人が美徳とするような「美しい英語」という幻想からも脱出する事が可能となるかもしれません。

明日からヴェニチアを旅してきます。

★今回の教訓:そろそろジャパニーズイングリッシュという蔑視ではなく、Nippon英語というジャンルを確立してゆく時期かもしれない。Nippon English なかなかいい呼称かもしれない。

(2019.3.7)

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オックスフォード通信(344/21)小切手をもらったら・・・

古くて新しいのがチェック(小切手)です

愛車を廃車にしました。スクラップ(scrapともdismantleとも言います)として車を売ることが出来ます。インターネットで探すといくつかの業者があり、一昨日のNISSANの後、すぐにその手続きに入りました。話は結構早く、インターネットで申し込むと見積もりが出て、翌日確認の電話があり、本日朝ピックアップの時間を電話で確認、午後車のcollectionに来てもらうという手順です。

日本円で2万円くらいで売ることが出来ました。MOTで8000円くらいかかりましたので差し引き1万円の+となります。半年とはいえ、あちらこちらにドライブを楽しませてくれた今となっては愛車ですので少し名残が惜しい気持ちです(忘れ物はないはずだったのですが、キーチェーンを付けたままにしてしまいっていました!)。

さて、午後に大型のキャリアカーでピックアップに来てくれたのですが、代金はキャッシュではなくてチェックで受け取りました。チェックを見るのは実に18年ぶり、カナダ生活以来です。早速現金化するため、Cornmarketにあるバークレー銀行に赴きました(小切手の発行先がバークレーだったので)。ところが、queue に並んで順番が来て、I’d like to cash the checkというとATMカードを出せというのですね。バークレーでは昔一悶着ありましたのでもちろん口座がありません。すると、口座のある銀行に行けと言われてしまいました。

昔は小切手をその場で現金にしてくれたのですが(endorseといって裏書きをすることでOKでした)現在では現金ではなくて口座に払い込む形になっているようです。H銀行に行くと口座開設のお手伝いをしてくれたclerkがまたまた親切に作業をしてくれました。必要事項を記入して(これははじめてでは分からない)ATMのカードに通すだけ。3日ほどで払い込まれるそうです。時代は進化しています。

ついでに銀行の届け出住所を日本に変更したい旨を伝えると快く変更に応じてくれました。ところが、作業を変わった若い男性社員が私の日本の住所を入力してサインするように求められたプリントアウト書類をみてビックリ。国がJAPANではなくてJAMAICAになっています。以前、銀行口座を開設した際にPINコードは来たものの、結局ATMカードがフラットに送付されなかった理由が分かったような気になりました。

きっと UNITED KINGDOM のかわりにUKRAINE あたりになっていたのではないかとにらんでいます。

車の保険も解約して自動車についての手続きは一応終了。鍵につけぱなしにしてしまったキーチェーン(アビーロードスタジオで購入した!)もスクラップ会社に電話をすると回収の運転手に連絡をしてくれたようで先ほど電話があり、明日郵送してくれるとのこと。イギリスはこのようなシステムは日本同様きちんとしています。

PS. 廃車手続きをMOTに送付する郵便もCo-opのPOST OFFICE(スーパーに郵便局が併殺というか合体しています)から出そうとすると、店員さんが宛名を見つけて、配達証明書付にした方がいいとアドバイスをしてくれました。日本と同じようなサポートがあるのがイギリスですね。

★今回の教訓:チェック(小切手)はまだまだ商用で利用されているけれど、使い方は進化しているようだ。

(2019.3.6)

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オックスフォード通信(343/22)St. Cross College

オックスフォード大に春休み滞在中のO先生にランチにご招待頂きました

O先生はオックスフォードにもう何十年も来ておられて、オックスフォードの隅々までご存じの東京のA大学の先生です。オックスフォード大博士課程で学んでおられるNさんと一緒に、先生が現在滞在しておられる、St. Cross College のランチによんで頂きました。

St. Cross College は有名なパブ、The Eagle and Childのすぐ近くでシティーセンターでも本当の中心部にあります。何でもその前を通りかかっているのですが、中に足を踏み入れるのははじめてのこと。

中は外の喧噪とは別世界。どこのカレッジも外部の騒音と遮断しているところがアカデミックなムードへ人を誘うのでしょう。O先生は退職まであと2年というお年ですが知的好奇心は誰よりも旺盛でアクティブにいろいろなセミナーや行事に参加されていて、お会いする度に私も見習わなければと思わされます。Nさんも現在博士論文をほぼ書き上げられた才媛。このような人達といろいろなお話ができるのは幸運な限りです。

ランチの食堂では教員も学生も中にはかなりお年を召した恐らく名誉教授の先生でしょうか、いろいろな年齢層の方々が同じ場で食事をしています。このような機会が日常的にあることが、いろいろな知的交流を生み、新たなアイディアが生まれる元になっていくのでしょう

オックスフォード大でジョイントプロジェクトをさせて頂いているR先生との研究も随分話がスッキリしてきたように思います。これもアイルランドに旅をしたりいろいろな人と話をすることによって、考えが磨かれてきたからだと思います。

★今回の教訓:ご飯を食べながらの交流は古典的だが一番効果があるように思う。気負いがなく、神経の80%は食べる事に向いているので構えず話ができることがいいのだろう。

(2019.3.4)

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オックスフォード通信(339/26)C.S. ルイスとトールキン

ナルニア国物語とホビット(又は指輪物語)はオックスフォードにゆかりのある物語です

それぞれの作者のC.S. ルイスとトールキンがオックスフォード大学の教授であったこと、この2人が同時代に生きていて街の中に足跡を残していることがその理由のひとつとしてあげられます。もちろん、この他にも不思議の国のアリスを書いたルイス・キャロルも有名です。

さて、C.S. ルイスとトールキンを含めたメンバーが定期的に集って会話を楽しんでいたパブが今も現役でオックスフォードの街中にあります。The Eagle and Child(イーグル&チャイルド)というパブです。大学の中心部にありますので、それぞれオックスフォード大の教授であったことを考えると行きやすかったということもあるでしょう。

そのパブは何度か行っているのですが、どこにその足跡があるのかこれまで分からなかったのですが、昨日そのパブに行ってみると、彼らの写真が飾ってある部屋がたまたま空いていて、その場でエールビールを頂きながら彼らが議論していた姿を想像していました。

イギリスのパブはそれほど明るくないのですが、その例に漏れず明るすぎず暗すぎずいい感じの雰囲気です。大学とは異なった環境で話をするといいインスピレーションが湧いてくるのでしょう。ラフマニノフもWriters Block(いわゆるスランプ)に陥ったことがあると解説に書いてあったのですが、日常的にビールを飲みながら会話をする場を持っているとスランプにも陥りにくいと思います。

文学の歴史が息づくのがオックスフォードとも言えると思います。ナルニア国物語とホビットがパブでつながっているのは面白いと思います。もう一度、読んでみたいと思います。

★今回の教訓:文学は作者の頭の中だけで存在しているわけではなくて、街の温かい雰囲気や友人との楽しい会話が刺激になって生まれてくるものなんだろう。

(2019.3.1)

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オックスフォード通信(338/27)オックスフォード交響楽団

コンサートに参加してきました

曲目はドボルザークバイオリン協奏曲、ラフマニノフ交響曲第2番です。シェルドニアン・シアターは卒業式などの儀式に使われるオックスフォード大学のいわば最も重要な施設・建物のひとつです。木造作りですが3階まで客席がありかなりの人数を収容することができます。普段も見学などは出来るのですが(要、入場料)、客席には入ることができません。

オックスフォードに来て思うのですが、客(or 学生)の出足はいつも遅く、”last^minute person” という言葉がありますが、「ギリギリ」にやってくる人がとても多いです。夜8時スタートだったので、7時半に到着すると入り口には2人いただけ。有り難いことに(自由席だったので)中央でオーケストラ席からほど近いいい席に着座することができました。その時点で客席は10%程度埋まっているだけ。あまり人気がないのかと思いきや、開始5分前になると3階まで一杯に。しかも8時の開演の時間になってもまだぞくぞくと人が集まってきています。

学生オケはいいと思います。最初のドボルザークは少し固く、ぎこちない感じもしたのですが、後半のラフマニノフになるとフルオーケストラ全員がひとつになってノリノリで演奏しているのがよく分かりました。それに対応して客席も熱気を帯びてきます。

「のだめカンタービレ」というドラマ・映画がありましたが、それをオックスフォードで見ているような感じすらしました。指揮者が情熱的にタクトを振る、バイオリンがチェロが一心不乱に弦を奏でる。特に第3楽章の馴染みのあるメロディーになると曲想の素晴らしさも相まってコンサートは最高潮に達したように思いました。

あらためて、何かに没頭する、集中することは大事だと思いました。そのためには楽しんで何かに取り組むことが重要だと思います。楽しめ!とよく言われますが、なかなかそれは難しいことかもしれません。20%くらいの余裕をもって全部をやり切ろうとしない心がけが重要なのかもしれません。また、これは2度めの経験だと自分に言い聞かせてその時間をゆったりと過ごすようにすることも重要かもしれません。

楽しいひとときをすごさせて頂きました。

★今回の教訓:いろいろな角度から「楽しむこと」「集中すること」「情熱を傾けること」について経験することは大事だ。

(2019.2.28)

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オックスフォード通信(337/28)豊かな大学生活

ラドクリフカメラの前にあるBrasenose Collegeの中庭を散策しました

Witch’s shot も少し和らいできたので(くしゃみはダメです、先ほど気をつけてしたのですがかなり元に戻った感じがします)、日頃お世話になっている ラドクリフカメラの前にあるBrasenose College の校門をくぐってみました。

オックスフォード大学はオックスフォード大学というカレッジはなく(ダブリンのトリニティーカレッジは違う)38あるカレッジの集合体をオックスフォード大学と称しています。私は教育学部の所属でカレッジには所属していないのですが、オックスフォード大学のIDでどのカレッジにも足を踏み入れることができます。

今週は2月としては史上最高の気温と天気予報が報じるくらいの温かい日差しが緑の芝生に注ぎ込んでいます。Brasenose College の中は外の喧噪とは別世界で中庭で学生が本を読んだりラップトップをいじったりしています。また談笑している学生も見うけられます。もちろん真ん中には正方形(長方形)の芝生が。

このような豊かな環境は健全な考えも育むだろうなあ、としみじみ思います。壁には大きな日時計も。時間がゆっくりと豊かに流れているように思います。ここからみるラドクリフカメラはまた一段と学問の偉大さを誇示しているようにも見えます。

★今回の教訓:伝統とは時間を緩やかに流すことかもしれない。世の流行とか一時的な喧噪に時間と気を取られることなく、人生や学問の本質に目を向けるようにすることこそ伝統の良さだろう。オックスフォードは学生にその伝統に向き合うようにうまく住環境と学問環境を整えている。その意味では京都にある大学にはいい条件がそろっていると思う。

(2019.2.27)

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オックスフォード通信(335/30)オックスフォードが世界一である理由(12)

何度目かになりますがクライストチャーチカレッジを訪問しました

来訪者がある度にこのクライストチャーチカレッジをご案内してきましたが(恐らくこれが最後かも)、その中で必ず行くのがダイニングルームです。映画ハリーポッターの食堂のモデルになったところで、一歩足を踏み入れるとハリーポッターの世界に入ったような、時空間を超える感覚に陥ります。

クライストチャーチカレッジのダイニングでは食事をしたことがないのですが、Keble College, Waddahm College, Linacre College, Kellog Collegeでは朝食や昼食、夕食を頂く経験が何度かありました。昼食は外で食べることがあっても、朝夕をこのカレッジで食べる特に学部生は恵まれていると思います。カレッジの中に住んでいることが(少し離れたところにドーミトリーを持っているカレッジも多くあります)学業に直結していると思います。

日本語でも寝食を共にするということばがありますが、特にご飯を一緒に食べる意味は大きいと思います。ただ食べるだけでなく、食べながらいろいろな話をします。それが日常的にあるわけです。

日本の大学でもコンパをすると(最近では飲み会ということもありますがあまりこのこの言葉は好きではありません)一気に学生同士の中が良くなるのを感じます。教員でもそうです。これはお酒が入っていなくても、ご飯を食べるというところから変な緊張感が薄れるからだと思います。また食べることについてはそれぞれが面白い経験やクセを持っているので話すとっかかりが何かあるのが特徴だと思います。

私の所属する大学の学科でも3年前から新入生オリエンテーションを宿泊型に変えて、一泊二日で京都市内の宿に泊まって研修を行ってきました。それが学業にどう直結したのかというと数字ではまだ表しにくいところがあるのですが、学生同士が自然といろいろな話をする機会を多く持っているのを目撃してきました。それ以上に笑顔をよく目にします。

食べながらコミュニケーションする、これは洋の東西を問わず、真理だと思います。オックスフォードも正直なところ面倒くさいことをやっていると思いますが、かたくなにこの伝統を守っているところに世界一の秘訣があるのだと思います。

学びはとってつけたような議論の上に成り立つのではなくて、ご飯を一緒に食べたり、飲んだりしながら、それぞれの生活体験の上に少しずつ根付いてくるものではないかと思います。映画マトリックスのような知識の注入はあり得ないのでしょう。

面倒くさいことが実は大事なのだと、クライストチャーチカレッジを散策しながら感じていました。

★今回の教訓:効率主義を100%否定するわけではないが、回り道のようなことが実は大事なのだと思う。日本で近年流行のアクティブラーニングも実際、学生を巻き込んだ議論という面倒な作業が中心だ。でも議論を巻き起こすための方法を教室内だけで探しても難しいかもしれない。オックスフォードのように寝食を共にすることには実は大事な意味が含まれている。

(2019.2.25)

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オックスフォード通信(334/31)ゼロのゼロはゼロ

グリニッジ天文台(Greenwich observatory)に行ってきました

世界標準時の基準となっている場所として小学校の頃に習ってから一度その場所を訪れてみたいと思っていた願いが叶いました。天気もイギリスに来てから最高と行っていいくらいの快晴かつ小春日和で、テムズクリッパー(mbna thamnes clippers)というボートに乗っていても(ロンドンアイからグリニッジまで約50分のテムズ河の船旅です。といっても途中から猛烈なスピードで飛ばすのでモーターボートに乗っているような感じです)に乗っているときも、グリニッジの船着き場から天文台までの散歩道もとても気持ちのいいものでした。

頂上まで約10分くらい。天文台は小高丘の上にあります。この丘からはロンドン市内を一望することができます。願わくはタワーブリッジなどがみえるといいのですが、ロンドン東部のビル群やコンサート会場のO2など。でも絶景には間違いありません。

そして、東経西経を分ける世界標準時の線。もっと長いものかと思っていたのですが、案外短いもの。列を(queue)を作るなと注意書きに書いてあるのですがどうしても一番前で写真を取りたいもの。後を見るとかなりのキューができています。線上に乗るか、東西に足をまたぐか、いずれにしてもこの小さな天文台が世界の基準時を作っているのだと思うと感慨深いものがあります。ここでもイギリスは自分達の基準を世界の基準としているのです。

日本標準時の明石天文台との違いは標準時の時計がないこと。係員に聞いてみたのですが、あるとしたら入り口にある24時間時計くらいのものらしいです。そこには、1 yard, I feet, 1 inchの基準の長さが鉄で提示してありました。これはイギリスの基準の長さというものなのでしょう。

どこからどこまでが西で東かという基準も時間をどこをゼロとするかも、はじめに作ったからそうなったわけで、別の基準があっても言い訳です。自分自身も含めてその基準となった場所を見に行こうとするわけですから不思議なものです。グリニッジでなくてもロシアでもインドでも中国でも良かったわけでそこには合理的な理由は全くありません。逆に、任意にある場所を決めたということはすごいことだと思います。またそれを信用させる仕組みも。

大正解と大不正解はコインの裏表なのだな、ということが、いい天気に照らされながら、頭の中を巡っていました。

★今回の教訓: 基準になった場所を見に行くのは大事なことだ。そこには何もないことが分かるから。

(2019.2.24)

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オックスフォード通信(333/32)イギリス文化の深遠さ

Optum(アヘン)という聞き慣れない言葉が一杯のセミナーに参加してきました

講師の中国系の研究者の余裕をにじませながら分かりやすく説明する話し方にも感銘を受けたのですが、あらためてアヘン戦争が中国にもたらした惨禍と日本がなぜアヘンに汚染させることなく明治維新を迎えることができたのか、よく分かるような気がしました。

日本国外で日本に関する講演を聴くと視野が広くなるような気がするのが不思議なところです。講演会終了後、ある方とパブでお話をする機会がありました。話はイギリスという国の不思議さに向いていきました。アヘン戦争(インド=イギリス=中国)や奴隷取引(アフリカ=イギリス=アメリカ)に見られるような三角貿易 (Triangular Trade)に象徴されるように、巧妙さに長けるイギリスがなぜこのBrexitでハタから見るとへまのような失態を演じているのかと。

ひとつの考え方によると、イギリスにはアメリカや日本のような成典化された憲法がないため、国会での議論の積み上げが実績となって後世に残ってゆくので、レファレンダム(住民投票)の結果を簡単に反故にするような安易な議論ができないのでは、というものです。一方で、007を生んだMI6がある国で国難とも言えるような状況を回避できなかったのは不思議なところです。

歴史はテーゼ→アンチテーゼ→アウフヘーベンと弁証法的に進化するという考え方がありますが、その方の考えではアウフヘーベンがないこともあると。単に振り子が一方に強く振れると次には反対側に強く触れてしまう。Brexitはイギリス文化を考えるのに絶好の教材となるのかもしれません。

イギリスはイギリスであってコンチネンタルとは異なると。ある方の見立ては正しいのかもしれません。恐らく、No Dealという形でなし崩し的にEUを離脱する大英帝国は、次にスコットランドの独立運動や北アイルランドの離脱など多くの局面を迎えていくのでしょうが、縮小再生産を通してこの国がどのような姿になっていくのか、何を目指すのか、悲観的ではない見方で今後も注視してみたいと思います。

いろいろなゲームのルールを作り、その親の役割で巨万の富を蓄えてきたのがイギリス。次は英語なのかもしれません。英語においてもいつかその親の役割を終え、国際語としての英語にバトンタッチする時が近い将来やってくるのでしょう。その時、古語のような言語に陥るかもしれないイギリス英語であってもイングランド人はきっと何かの誇りをもってそれでもいいというのかもしれません。

★今回の教訓: イギリスを研究すると国の在り方、国の盛衰、国としてのアイデンティティーが解明できるのかもしれない。

(2019.2.23)

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オックスフォード通信(332/33)老いも若きもバイクに乗る

あらためてイギリスはオックスフォードは特に自転車文化だと思います

イギリス全般をみても山がほとんどないせいか、トンネルにも滅多なことでは出くわすこともなく、当然アップダウンがそれほど多くありません。

日本では自転車というと子どもや若者が乗るもの、最も最近では電動自転車の普及のお陰でその年齢層は幅広くなっていますが、イギリスほどではないと思います。最近は徐々に日照時間も長くなり、午後5時半くらいが日没ですが、それでも6時を回ると暗いので、みなさん準備万端、前(基本的に白)と後(基本的に赤)にライトを装着して、人によってはカバンやヘルメットにライトを付けて走っています(盗難にあうのでこのライトは着脱式です・電池だけでなく充電式のものもあります)。

少し口惜しいのは自転車で走っていると大抵イギリス人のバイクに抜かされることです。彼らの長年培った年季にはなかなか太刀打ちできません。大学生ならスイスイと、同年代なら徐々に詰められて抜かされる感じです。それほど道路が真っ直ぐで、よく走る Banbury RoadやWoodstock Road はかなり先まで見通すことができます。

ただ、経費もかからず(パンクの経験は今のところゼロ、チェーンがはずれたことが2度あるだけ)、健康にもいいような気がします。京都でも乗っていましたが、オックスフォードの方がはるかにバイク・フレンドリーな街だと思います。

私よりもかなりお年を召したご婦人や紳士が万全の態勢で自転車に乗っておられるのをみるとまだまだ老年の域に入るわけにはいかないと対抗心がメラメラと沸いてきます。そのような生きる活力という面でも自転車は人を健康的にしてくれるといえそうです。

日本への帰国が迫ってきましたが、こちらでいる間に特にライトをいくつか買って帰ろうと思います。

★今回の教訓:一種の競技をしているような錯覚に陥るのが自転車のいいところ。古くて新しい乗り物だと思う。

(2019.2.22)

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