女優アン・バンクロフト と聞いて、Mrs. Robbinsonと答える人、Mrs. Robbinson と聞いて、映画「卒業」と答える人はこの場にはそれほど数多くいらっしゃらないかもしれません。私の記憶の中に残っている映画「卒業」はリバイバル上映で 観たものかもしれませんが、当時大好きだったサイモン&ガーファンクルの曲がこの映画の始めから最後までバックに流れていたこともあり、いまでも 記憶に鮮明に残る映画です。
し かし、この映画で主人公、ダスティンホフマンを誘惑するMrs. Robbinsonを演じていた女優と、映画「奇跡の人」で、ヘレンケラーの家庭教師役、サリバン先生を誠実にかつ情熱的に演じていた女優が、同じアン・ バンクロフトであることに気づいたのは実は、つい最近のことでした。
先 月、私は、田辺キャンパスで教えている英語英文学科3回生の応用言語学ゼミで、映画「奇跡の人」のあるシーンを見せようと思いたち、何度もDVDを見てい る内に、サリバン先生役が映画「卒業」でMrs. Robbinsonを演じていた同じバンクロフトであることに、遅ればせながら気づきました。しかも、大変遅ればせなことに、そのゼミでバンクロフトの 「奇跡の人」を見せた6月の丁度その日に、彼女が73歳の生涯をニューヨークで終えたというニュースを知りました。彼女が亡くなる前に知りたかったと思っ たものです。
さて、今回、この歴史と伝統のある今出川キャンパス栄光館ファウラーチャペルではじめてお話をさせていただくことになった時に、そのアンバンクロフトが出演した映画「奇跡の人」の主人公、ヘレンケラーに関わる話をしたいと漠然と思いました。
それは、約50年前、来日中のヘレンケラーが この同じ栄光館ファウラーチャペルでこの場で講演をしたということもあります。または、今、お話をしたように、アン・バンクロフトが最近亡くなったということもあるのかもしれません。
映画「奇跡の人」は何度見ても、学ぶことの多い映画です。
特 に、言葉の意味を理解出来なかった、ヘレンケラーが、水=Waterという単語をきっかけにして、言葉の意味を体得する場面にはいつも目が釘付けになりま す。サリバン先生が、手に、Waterと何度書いても、その意味が理解出来なかったヘレンケラーが、井戸から流れ出る水を触った瞬間に、丁度雷にでもうた れたかのように、はじめて、ポンプから流れ出る水のことをWaterという言葉で表すことに気づく場面です。そのことをきっかけに、ヘレンケラーは周りの 物事をあらわすあらゆる言葉をスポンジのように覚えていきます。地面、樹木、鐘、お父さん、お母さん、そしてサリバン先生をあらわす、Teacherとい うことば。
通常、こどもは、目に見えるものを指し、親や周りの大人がその ものをあらわす言葉をこどもに話すため、そのものはそのような言葉で表されること、すなわち、言葉の概念を自然と理解していきます。しかしながら、視力、 聴力、嗅覚を奪われたヘレンケラーに取っては、普通のこどもが自然に習得することが、容易にできなかったわけです。
その意味では、ヘレンケラーは、通常こどもが無意識に体得する過程をスローモーションのように明示的に提示してくれているようにさえ思えます。これは、第一・第二言語の習得という観点からも興味深い事象ですが、私達の大学生活に示唆するものがあると思います。
すなわち、考えても分からなかったことがある時突然氷解する、ということです。または、ある時突然、素晴らしいアイディアが閃くということです。
教える立場からすると、学生のみなさんに、何度言ってもなかなか分かってもらえないことがあります。ところが、ある時、なぜか、急に、学生のみなさんが理解してくれるということがあります。 学ぶ側からするなら、いくら考えてもわからないことがあります。しかしある日突然、いままで悩んでいたことが嘘のように「すっと」がわかる、または、道が「さっと」開けるように思うことがあります。
実 は、ヘレンケラーの「奇跡の人」の場合においても、サリバン先生は、井戸でヘレンケラーの手に水をかけ、Waterという字をヘレンケラーの手に書くのと 同じ作業を以前から何度も繰り返しています。たとえば、一緒に川に入って、水を体全身で感じさせて、手にWaterと書くわけです。その時には、何の反応 も見せなかったヘレンケラーが、ポンプの水の際にどうして、天明が鳴り響くように、「理解出来たのか」、興味深いことです。
私 にも同様の経験があります。今から、15年前、大学院1回生だった私は、自分自身の修士論文のテーマを何にしたらいいものか、考えあぐねていました。今は 東京外大に移られた指導教官からは、いろいろと参考になりそうな文献を紹介してもらい、読み進めてはいたものの、どうにもこうにも、自分の修士論文のテー マにするようなものには行き当たりませんでした。論文においてはテーマ、すなわち、Research Questionを見つけなければいけないのですが、これほど難しいことはありません。当時愚かだった私は、適切なアドバイスをしてくれない指導教官を怨 んだりしていましたが、何について研究するか、何に疑問を持って研究するかという研究の根幹=いわば研究の魂、は人から教えたりアドバイスをしたりするの もではない、ことに、実際に自分自身が大学の教員になり卒業論文の指導をする段になってよく分かるようになりました。
いま、私は、外国語学習における学習ストラテジーについてさまざまな角度から研究を進めていますが、そのキーワードである、ストラテジーを研究のテーマに据えようとおもった瞬間を、丁度、ヘレンケラーがWaterを理解した場面と同様に、鮮明に提示することが出来ます。
丁 度、それは9月下旬の3時くらい、大学の図書館で関連する本を読んでいた時でした。その本は何度か読んでいた本なのですが、ストラテジーについてのページ をめくった瞬間、「あ、これなんだ」ということが急に分かった気になりました。大げさに言うなら、天上からその本のそのページに光が差しているような気が しました。なぜ、そう思ったのかわかりませんが、その時に、私が研究するテーマはこれなんだ、ということを「確信」した自分に気づきました。時間にすれば ほんの一瞬の出来事なのですが、その瞬間のことは15年も経ったいまでも忘れる事はありません。
どうしてそのようなインスピレーションを得ることが出来たのか?未だ持って分かりませんが、私はヘレンケラーの奇跡の人のWaterのシーンを見るたびに、全く同じはないにせよ、自分の経験と重ね合わせてしまいます。
でも、このようないわばインスピレーションを得る幸運な経験は誰にも訪れる事なのだと思います。なぜ、そのようなインスピレーションが頭に走るのか、それは分かりませんが、その条件のようなものは、あるように思います。2つあるように思います。
ひとつには、継続すること。たとえば、論文を本を読み続けること、何度も読み返してみること、繰り返し練習してみること、そして考え続けること。
ひとつには、異なった環境に身を置くこと。同じものを読むにしても、同じ話を聞くにしても、読む場所、聞く場所が異なることによって全く違う印象を持つことがあります。
私の場合にしても、下宿ではなく、図書館で本を読んでいたのがよかったのかもしれません。
ヘレンケラーの場合も、川の水ではなくて、井戸水だったのがよかったのかもしれません。
いずれにしても、継続することは、共通することです。
春 学期の授業は今日で終了しますが、これから2ヶ月間という長い夏休みは、みなさんにとっては、このように、何かを継続する、または異なった環境で行ってみ るということが容易になる時間であると思います。旅に出る人、アルバイトに精を出す人、故郷に帰省する人、ボランティアに参加する人、就職活動をするひ と、外国に行ってみる人、または榛名町の新生会でのワークキャンプに参加する人、などさまざまな過ごし方をされると思いますが、そのような中で、春学期に 考えてみて、どうもよく分からなかったこと、将来について、または卒業論文について、など、あたまの片隅にあって解決していないことについて、普段の大学 生活とは異なった環境で考えてみてはどうでしょう。
考え続けている限り、あるとき、急に、天から光が差すような幸運を味わうことが出来ると思います。それはスターバックスコーヒーのテラスであるかもしれませんし、新幹線の中かも、坂道を歩いている時かもしれません。
そのようなインスピレーションがあると、人生は実に豊に楽しいものになるものです。
2ヶ月後、元気な姿でお会い出来る事を楽しみにしています。みなさんの夏休みが実り多いものであることを祈念して、今日のお話をおわりにしたいと思います。みなさん、是非、考え続けてみてください。
なお、映画「奇跡の人」はAVセンターに所蔵してありますので、興味のある人はご覧になって下さい。
ありがとうございました。
(2005年7月13日、今出川栄光館における2005年春学期最終礼拝より)
(2005. 7. 13)