ロンドン・グローブ座でシェークスピア劇を見てきました
とはいえ、グローブ座で公演がされているのは4月から10月までの半年のみでその他の時期はSam Wanamaker Playhouse (寄付者の名前)という室内劇場でおこなわれています。午前11時からのグローブ座のGuided Tourに参加した後、午後1時からの公演という流れで参加しました(1時間半+15分の休憩+1時間)。
グローブ座のツアーも中々興味深くその歴史から現在3代目となっている建物のいわれについても詳しく教えて頂きました。創建当時、ロンドンの人口は20万人程度、城壁で囲まれた(シティーもここから)割りと小さな範囲で、当時のテムズ川の川幅は現在よりも広く、市民は対岸に住んでいてそこから船で劇場にやってきていたようです。夜になると治安が悪くなるので演劇は昼間のマチネでおこなわれていたのことです。
ロンドンの街を歩いていて、例えばビッグベンの辺りに、住所を表す看板に、City of Westminster とあるのを不思議に思っていたのですが、以前のロンドン市の領域は説明の通りぐんと狭い地域だったため、国会議事堂のある辺りはロンドン市に含まれていなかったようです。当時の区域割りを忠実に踏襲しているのにもビックリします。
グローブ座はグランドレベルが1ペニー、上に高くなるにつれて1ペニーずつ料金が上がっていったようです。同じ場所に再建されていませんが大きさと形は同じだそうです。当時で3000人、現在のグローブ座で1500人が収容人数の上限だそうです。当時は体格も現在のように良くなく、背格好も小さかったため現在の倍の人数が入場することが出来たそうです。
見学した際、たまたま地元の中学校の演劇ワークショップの発表会が開かれていました。子どもと思えない堂々とした態度で演じているのに感銘を受けました。
リチャード3世は、暴君として好き放題していた王様が従兄弟のヘンリー4世にその座を追われ最後は殺害されるという割とシンプルな筋書き。ただ演出は凝っていました。まず役者は役柄に関係なく全員女性でした。不思議なのは見ている内に男性女性ということが全く気にならず、王様ならそのまま王様に見えてくるのが演出の妙ということなのでしょう。音楽は生演奏で要所要所で効果的な音楽を響かせていました。舞台装置は前面に竹の壁が作ってあって、イングランドやアイルランドではなくて、アフリカかアジアのどこかの場所設定のような雰囲気がでていました。本当のロウソクだけで照明効果を上げていたのも特徴的です(日本ではできないかもしれません)。
Wanamaker Playhouseはとても小さな劇場で、その割には人数は割と沢山入れるようですが、舞台と観客席がとても近いのが印象的です。
リチャード3世を2時間半見てて、王という種族ははかないものだと思いました。平家物語にも通ずるものがあります。トップの座にいるものはその時には多くの人がちやほやするのでいい気になりますが、いずれその座を追われることになります。これは王に限らずトップの座に君臨するものの定めと言ってもいいかもしれません。その座を滑り落ちたリチャード2世に人間的な側面が多く見られるのが面白いところです(王の座にいるときには王という立場にその人の人間性がのっとられているかのようです)。王と違って普通、殺されるところまではいきませんが、NISSANのゴーンさんをみているとリチャード3世と似たような運命をたどっているともいえるかもしれません。
1616年にこの世を去ったシェークスピアですが、死後400年を経てもその言葉や筋書きにハッとさせられるのは、音楽のベートーベンと同じ偉大さがあるのでしょう。
PS. 演劇には教えられることが多い。Shakespeareが “All the world is a stage” というように私達は自分の人生を演じているだけなのかもしれないと思える。映画 “About time” でも示唆されているように「2度目の経験だと思って何事にも当たると落ち着いて対処できる」と思います。人生は舞台と実は同じ事を言っていることに気づきました。何事も役者が演じているだけのことかもしれません。それが成功しようとしまいと、関係ないのです。
★今回の教訓:同志社女子大学英語英文学科の教員としてはいずれいかなくては・・・と思っていた聖地のひとつグローブ座。案内してくれたEさんも役者なのでしょう、セリフ、いや説明の言葉がハッキリと聞き取りやすいだけでなく、顔の表情も自然に作っておられた。グローブ座はインパクトがある。
(2019.3.19)