いつもよろこんでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです(テサロニケの信徒への手紙、第5章16-18節)
人はみなパーフェクトでありたい、と願うものだ。それは人が向上していこうとする際には重要なことだ。しかし、その考えが強すぎるとかえって、その人の精神的、知的また人間的な成長を妨げてしまうことになることもある。
授 業を担当していると当然のことながら、コースワークの一環として数々のアサインメントを受講生の学生諸姉に課すこととなる。近年、課題の提出にあたって3 つのパターンがあることがわかってきた。ひとつは、時間を十分にかけて、考察が隅々にまで行き届いているもの。ひとつは、時間が足りなかったのだろう、一 夜漬けのようにやっつけ仕事のようにとにかく要求された字数を埋めて提出されたもの。ひとつは、潔く、「できなかった」、として提出されないもの。どれか いちばんいいか?ノ なんていう事をここでいいたいわけではない。
大学教師とし ての修行が足りなかったせいか、以前は、期限後でも苦言を呈しながらも受け取る事が多かったが、最近では期限後の課題提出は一切受け付けない事にしてい る。そのように宣言すると、二番目のどうにかこうにか完璧ではないにしろ、出すだけだそうという学生が増えてきた。また、時間をかけて素晴らしい出来栄え の課題を提出する理想的な学生も増えてきた。教育効果の現れである。しかし3番目のタイプは、依然として存在する。興味深いのは、三番目の潔いタイプの 「その後」である。
みなさんなら、このような状況で、つまり遅れて提出し ても「0点」の課題を提出するだろうか?成績の事をクールに考えるなら、出しても無駄だから、そんな時間があったら他の事に時間を使おうと思うだろう。賢 明な選択だ。しかし、そのような中でも、「先生、0点でもいいので書いたものを見てください」としつこくやってくる学生が私は好きだ。このようなねばり強 さは、別の味方をすれば潔くない、という事になるのかもしれない。しかし、このような執念が人生には必要になることが多々あることを、私は体験から知って いる。そのような学生に接していると、言葉では厳しい事をいいながらも、こころの中では、そのような学生の態度にに大いに共感している自分自身に気づく。 きっと、まだまだ大学教師としての修行が足りないのだろう。
でも、人生において遅すぎることって実はないんだよな、といつも自分に言い聞かせている。”Being late is better than nothing.” なんだよな、と。
(同志社女子大学 Chapel News 5月号掲載)
(2004. 5. 1)